月光虹 急之破



満月に近い姿の月が、晧晧と輝いている。

むしろ、その明るさは煌々と喩えても良いほどに、黒い木々を覆う暗い夜空に映えていた。

岩場の上に、水邪と炎邪と共に立つ葉月は、月を見上げる。

柔らかい月の光に導かれたかのように、何か安らいだ気持ちが葉月の心に満ちていった。

「きゃ――――。」

子供の甲高い声で葉月は我に返った。

「どうしたのっ!?」

淑鈴を案じて一歩踏み出した途端、

「きゃあッ」

葉月は足を滑らせ均衡を崩す。

「ゴルァッッ!」

葉月の身体は強い力で繋ぎ止められ、岩場からぶら下がっていた。

驚愕から覚めた葉月が知ったのは、彼女の腕を掴んでいる手が炎邪のものということだった。

葉月はそのまま、一息に引き上げられる。

「ドゥシャッ!!」

元通りに岩場の上に下ろされた葉月は、目を瞬いて自分を助けた妖魔を見た。

「炎邪さん」

「案外愚鈍だな、貴様は。」

軽く侮蔑を含んだ声で水邪が言った。

葉月は言葉に詰まる。

それは、彼女が常日ごろ、気にしていることだった。

里にある時の葉月は、はきはきとした態度と立ち振る舞いのために”しっかり者”という印象を持たれることが多かったが、

案に反して抜けた行動をとってしまっては落胆され、また苦笑されることが少なくなかったのだった。

「グルォッ?」

しょげて俯いた葉月を、炎邪が覗き込む。

「あ・・・・・・」

葉月は顔をあげた。目に映ったのは、蓬髪と太い眉、その下の瞳を持たぬ目、口から覗く牙。

そんな容貌の炎邪だが、今は子供のような無垢な表情で葉月を見ていた。

「ありがとう、炎邪さん。助けてくれて。」

葉月は笑みを浮かべる。

「ゴルア!」

その笑みを見て、炎邪も常の表情で笑った。



しかし葉月は思い出した。

自分が足を滑らせたきっかけを。

「あ! 淑鈴スーリンちゃんは・・・・・・」

きょろきょろと子供を探す葉月の耳に、

継海チーハイ大師兄〜。戦波ジャンボ二師兄〜。葉月師姐〜〜。」

淑鈴の声が届いた。

「見てくだサイ〜〜〜。」

少し離れた林の手前の樹木に、子供の姿があった。

「ええっ!?」

葉月は思わず目を見張る。

木の幹の中程に、子供が垂直に直立していた。

葉月から見て完全に真横になっているその状態で、淑鈴は三人に向けて袖を振っていた。

横倒しになった顔に、満面の笑みを浮かべた子供の長い銀髪が、地面に引かれるように流れ落ちている。

「ドゥグァッハァ!!」

それを見た炎邪が、両の拳を力強く握り締めて笑った。

「師兄〜。淑鈴、ヘキココーができるようになったデスよ〜。」

「ディギュシャッ! ヴァッハア――――――――ッ!!」

炎邪は喜んでいる様子だが、葉月はただただ目を丸くするほか何の行動もとれなかった。

驚きに硬直した葉月の背後で、水邪の声がする。

「愚物めが。壁虎遊堵(へきこゆうと)功は壁を伝うための軽身功だぞ。直立のみで何の役に立つか。」

「じゃあ、淑鈴今から走るデスー。」

「もうよい、下りよ痴れ者。怪我などされては面倒だ。」

葉月は二人のやり取りを耳にするうちに、漸う人心地を取り戻す。

「す、淑鈴ちゃん・・・・・・水邪さまの言うとおり危ないから、すぐ降りてきて・・・・・・。」

「はぁいデス。」

いささか不満そうな面持ちながら、子供は葉月の呼びかけに従いひょいと飛び降りてきた。

「武侠、って・・・・・・あんなことができるんですか・・・・・・?」

葉月はおずおずと、水邪に声をかける。

「序の口だ」

水邪は平然と答えた。




一行は山頂に出た。

月光が、夜空を貫き輝いている。

「なるほど。天鏡と呼ぶに相応しき輝きだな。」

月光を浴びた水邪は、悠然と呟いた。

「愚民どもの前に神の御業を顕すには好都合の宵、か。」

葉月たちが見守る前で、

水邪は片腕を天に差し上げ、目を伏せる。

その手首を取り巻く鉄輪に雫が浮き出し、小さな流れを形作り、水音が溢れ出す。

「天、昇ッ!!」

水邪が一声高く叫び、

呼応するかの如く水柱が吹き上がり、水邪を取り巻き舞い上がった。

「きゃっ!」

「わ―――――――。」

「ガルバハァー!!!」

三人の上げた声も、水の轟音に掻き消されたが、

水柱は水邪が指揮する腕の動きに従いさらに舞い上がり、空に飛散した。

一面に舞い落ちる、細かな水飛沫。

水邪の手によって作り出された密雨であった。

両腕を広げ、雨を作り出した水の魔、神を名乗る魔が天を仰ぐ。

密雨の名残がその姿を朦朧と包む。

見ている葉月たち三人の肌も、衣服や髪も、飛沫に塗れしっとりと濡らされていった。

「さあ、蒙昧なる眼(まなこ)を開くがよい。」

水邪は、両腕を大きく広げた。

「これぞ、天地にあまねく打ち立てられし神の御業だ。」

肌に感じられた心地よい湿り気が沈静する中、

葉月は空を見た。

子供も同じように見上げ、大きく口を開いた。

「わぁ・・・・・・。」

感嘆の声が途中で途切れ、子供は両の瞳を真ん丸に開いて、見入っていた。

闇の中に浮かび上がる、一筋の虹に。

黒い空を貫く、仄か白き弓に。

(虹・・・・・・)

葉月にとっても、それは初めて知ったことであった。

(夜でも・・・・・・お月様でも、虹って見えるんだ・・・・・・)

稀に、月の光でも虹は作られる。

ただ、今葉月の目にしている月光の虹は、太陽の下でのそれに比して弱々しく、

白く朧げな姿ではあったが。

葉月の目に、伸ばされた小さな両手が映る。

子供が、飛び跳ねている。腕をいっぱいに伸ばし、掌を空に向け、虹を掴もうとして宙を掴む。

「淑鈴ちゃん。」

葉月は声をかけた。

「とれないデス〜。」

子供は振り向き、葉月を見上げる。

「葉月師姐、おてて、届くですカ?」

純粋な光が濡れたように煌いている、幼子の瞳。

葉月は淑鈴に笑んだ。

「私も届かないの。一緒に見てようね。」

子供は素直に、再び空を渡る白い弓を見上げた。

共に月の虹を見上げながら、葉月の心に降りた想いがある。

(兄さん達にも、見せてあげたかったなぁ)

ふと、二人の兄、火月と蒼月が、

自分の傍らで月光虹を見ているような気がした。

「満足したか。愚民どもよ。」

水邪の声で葉月の刹那の夢想は立ち消える。

少し向こうに炎邪が立ち、手持ち無沙汰に虹を見やっていた。

あまり関心がないようだった。

水邪に感嘆の眼差しを向けた淑鈴が言う。

「神サマだったデス。」

子供は、ぴょんと立ち上がった。

「継海大師兄は、ホントに神サマだったンでスネ!」

「フン。」

眇めたその目に高慢な光を湛え、水邪は子供を見下ろした。

「ようやくその節穴同然の眼を開いたか。遅きに過ぎる。」

水邪は驕慢な動作で、子供に歩み寄り目前に立つ。

「もっと良く見たいか?」

「ハイです〜!」

葉月が驚いた事に、水邪は子供を抱え上げるとその広い肩の上に乗せた。

「恐れ多くも神の聖なる肩に座すことを赦される者は、貴様が最初にして最後であるぞ。我らが小師妹シャオシメイよ。」

淑鈴がはしゃいだ声をあげる。

「貴様、もっと畏まらぬか。無礼者が。」

白い虹を見上げていた子供は、ふいに水邪へ顔を向けた。

「継海大師兄! 継海大師兄! 淑鈴ね、お父さんと師兄たちが会ったら、おいわいにお料理作るデス!

葉月師姐に教わって、トッテモ美味しいの作るデスよ!」

一点の曇りもない笑顔が、子供の顔に咲いていた。

「葉月師姐、お兄さんが二人いるって言いマシタ! 師姐のお兄さんたち、リューハは天仙遁甲じゃなくっても

師姐の兄弟ダカラ〜、天仙遁甲のミウチになりマスね! だからみんなで一緒にお祝いするデス!」

(え? そういうことになる、のかなぁ?)

はしゃぐ淑鈴の言葉を、葉月は僅かに疑問に思う。

「ほぅ。封魔の娘の一族と我らで宴を催す、ということか。」

水邪は唇の端を歪めた。

「良かろう。思い起こせば貴様の母が在りし日は、その手になる料理はなかなか美味であったぞ。

貴様もせいぜい精進し、神たる我を満足させるだけの供物を用意せよ。」

「ハーイです! 淑鈴、ゼッタイ美味しいお料理つくりマス〜! 葉月師姐とイッショに! キタイしていてくだサイ!」

はしゃぐ子供を横目に、水邪の唇に張り付いている笑みが、さらに歪められた。

目にする葉月の心に、鋭く不快と疑念の棘が突き刺さる。

水邪が良からぬ企みを心中に伏せていることは、もはや決定的と思われた。

しかし、それは果たして何なのか。答えは葉月が窺えぬ闇の向こうに隠されている。

「ゴラッ」

炎邪の声に葉月は目を向けた。

炎邪が指差した黒い空にかかる白い弓は、朧に霞み玉響に消え入ろうとしていた。

「虹、消えちゃうデス。」

子供の声が、一転して寂しげに聞こえた。

「万物は流転するものよ」

言葉と共に、水邪が子供の唇を拭ったのを葉月は見る。

淑鈴が、ぱちくりと目を瞬いた。

水邪は己の肩の子供の服を掴み、軽々と担ぎ下ろす。

「戻るぞ」

踵を返し、後を一顧だにせず水邪の後姿は昏い山道へ消えていった。

炎邪が踵を返そうとして、葉月を振り向く。

「ドギュシュッ!!」

促すような一声に、葉月は歩を踏み出したが、ふと動こうとしない子供に目が止まった。

「・・・・・・淑鈴ちゃん?」

子供の頭が、こくりこくりと揺らいでいた。

「どうしたの?」

葉月は子供に歩み寄り、屈み込んで声をかける。

「・・・・・・眠い、デス・・・・・・」

重そうな瞼の下で辛うじて目を開いてはいたが、それも霞み、声は既に消え入りそうだった。

葉月は慌てて、傾いだ子供の身体を支える。

「デュシャァ!」

炎邪が大股に歩み寄り、葉月の手から子供を抱え上げた。

「グガアァッ!」

炎邪は顎で葉月を促す。

釈然としないものを感じながらも、葉月にはその後に従う他なかった。




「炎邪さん?」

葉月は瞬く。

彼女はこれまで入れられていた岩屋の前まで連れてこられたが、

炎邪は抱えた子供を降ろすそぶりは見せなかった。

「ゴルァ!」

炎邪は、葉月に対し岩屋を指し示す。

「あの・・・・・・淑鈴ちゃんは?」

「ゴォッ!」

炎邪は葉月の肩に手を置き、押しやった。

「ドギュシュッ!! ドグゴルァ!」

そう吠えると、炎邪は葉月に背を向け、子供を抱えたまま歩み去った。

「炎邪さん!」

胸騒ぎがした。

確実に良からぬことが起きると、葉月は確信した。 

葉月は立ち上がり、炎邪の後を追う。



「炎邪さんっ」

光の漏れる方へと葉月は走り、これまで踏み込んだことのない洞の入り口に立った。

正面に、葉月は自然に出来たものか造られたものか、判別しづらい岩の台座と

その上に横たわり、昏々と眠り続けている子供……劉淑鈴を見た。

呼びかけようとして、葉月は声を飲み込む。

台座の向こうに立つのは水邪だった。

感情を窺わせぬあの笑みが、その面を覆っていた。




「ジョルッ!」

炎邪が葉月を振り向く。

「何用か、封魔の娘よ。」

炎邪が灯したらしい火に照らされた水邪の笑みに、葉月は息を飲んだ。

「下がれ。」

その冷ややかな声音が、葉月の言葉を封じる。

これはどういうことなんですか。

淑鈴ちゃんをどうするつもりなんですか。

そう問いたかった。

言葉は、葉月の喉から出てこなかった。

水邪の笑みが大きく歪む。

「それとも、貴様も仙の血を浴びて己の力を高めたいと申すか?」

「え・・・・・・?」

声音に愉快そうな響きが混じり、水邪は笑みを湛えたまま葉月を流し見る。

「良かろう。貴様は我らと共に三神一体を為す定めの者。封魔の力を神仙の血肉で高めるも、また一興だな。」

葉月は茫然と目を見開き、得々とそう語る水邪の面を見据えていた。

水邪の言っていることの意味は理解できる、

だがそれを信じることができなかった。

水邪が眼下で眠る子供に一瞥を投げかける。

「師、劉雲飛の一粒種たる我らが小師妹シャオシメイよ。貴様はこの神聖なる役割を果たすためにのみ、現世に生を受けたのだ。

新たなる世を支配する三神の糧となること、誇りに思うがよいぞ。」

朗々と告げる水邪の声を浴びている子供は、瞼を閉じたまま何の反応も見せることなく、すぅすぅと微かな寝息を立てていた。

水邪は子供の長い銀の髪の根元を掴み、手元に引き寄せる。

「ちっぽけな頭だな。」

その口元に、嘲りを宿す歪みが浮かんだ。

「このような脆弱な首など簡単に落ちる。何ら労力は必要ない。」

「ゴルァ!」

水邪は、一声叫んだ炎邪を流し見た。

「心配はいらぬぞ、同胞よ。我が神聖なる屡堵羅の環より湧き出でし清水、これを口にすれば如何に仙と言えども

六刻は目覚めることはない。お前の望みどおり、この小娘は欠片の恐怖も苦痛も感じることなく、

安逸に二親の待つ黄泉へと旅立つことができるのだ。大いなる神の御心によって、な。」

子供の髪を掴んでいる水邪は片手を振り上げ、鋭く尖らせた爪を持つ指先を細い首筋に定める。

「止めてっ!」

叫び声が響き、

無我夢中で飛び出した葉月が、水邪を突き飛ばすようにして昏睡する子供の上に覆い被さっていた。

「グルォッ!?」

「何の真似だ、封魔の娘よ。」

水邪の声が冷たく響く。

「退かぬか」

葉月は目を固く閉じ、淑鈴の身体を庇いながら、ただ夢中で首を振る。

「情を移したか? 貴様とは何ら関わりを持たぬ、他人の子供であろうが。」

そう言いつつ、水邪は葉月の忍び装束の胴締めを掴んだ。

軽々と、葉月の身体は子供の上から引き離され、地に投げ出された。

受けた衝撃と痛み、それを介さず葉月は身を起こす。

「ドゥラァ!!」

炎邪が、葉月のすぐ側まで来ていた。振り返った炎邪は、獣が敵を認めたかのように水邪に対して唸り、

水邪は僅かながら、憮然とした表情を浮かべる。

「同胞よ。何ゆえこの娘のこととなると我に楯突くか?」

「ガァオッ!」

一声吐き捨てた炎邪は、葉月に目を移す。

「・・・・・・このために、淑鈴ちゃんを連れてきたんですか。」

葉月が低く呟いた。

「フォオ?」

「淑鈴ちゃんは、水邪さまたちのことを兄弟子だって・・・・・・」

葉月は顔を上げる。

怒りに満ち、涙に潤んだ目は真っ直ぐ水邪に向けられた。

「あんなに慕っているのに、どうしてそんな酷いことができるんですか!」

その叫びを受けた水邪は、冷たく侮蔑を含んだ笑みを葉月に投げかける。

「貴様は、これまで此処で喰らった獣に同情するのか?」

葉月はその言葉に、刹那意識が空白となった。

「封魔の娘よ。貴様は己の糧に同情するのか、と我は聞いている。」

葉月を眼下に眺めつつ、水邪は唇の端にさらなる嘲りを篭めた。

「・・・・・・でも・・・・・・。」

何か言わなくちゃ、言葉を続けなきゃ、と葉月は必死に考えを巡らせる。

「こんな、恐ろしいこと・・・・・・それに淑鈴ちゃんは、水邪さまたちにとって恩がある人の娘さんじゃないんですか?」

「ほぅ。成る程。そういう思考もあるか。」

嘲りも露わに、だが同時に楽しげに言うと水邪は炎邪に目を移した。

「炎邪よ。人間とは、実に仔細なことに拘るものだな。」

「ドッゴラ!」

その言葉には完全に同意したらしい炎邪は、楽しげに肩を怒らせ答える。

「確かに我らは、かつてこの小娘の父である劉雲飛を師と仰ぎ、武芸を伝授された。それは否むべくもなき明らかなる事実。

だが、」

水邪は眼下に眠る子供を一瞥した。

「この小娘自体には欠片の恩義も義理もない。」

平然としたその声が、葉月の耳に突き刺さる。

「むしろ我らの血肉となることにより、神の内にて悠久の時を生きる栄誉を授かることを慶ぶべきだな。」




膝の上に握り合わせた両手が震えた。

初めて葉月は、目の前の人であった魔物、神を自称する千年の刻を経た魂である水邪に対し、

じりじりと焼けつくような感情に捕らわれていた。

怒り。

胸のうちがちりちりと嬲られ、息すら苦しくなる類の、これほどの激烈な怒りを感じたことは今までになかった。

それを押さえ込もうとするかのように、葉月は顔を伏せ、握り合わせた両手にさらに力を込める。

「理解したならば下がれ、封魔の娘よ。小娘の今際に立ち会うのが苦痛ならば、な。」

「・・・・・・嫌です。」

押し殺した声で呟いた葉月は、ややあって言葉を絞り出した。

「せめて、今夜だけは淑鈴ちゃんと二人一緒にいさせてください。」

「思い上がるな。貴様などの我が儘に付き合えると思うか? 神の怒りに触れる愚を犯す前に失せよ。」

「最後のお別れだけでも、ちゃんとしたいんです。」

葉月は唇を噛みしめ、三つ指をついた。

「お願いします。」

頭を下げた葉月を前に、水邪は思いを巡らせる。

小娘の愚にもつかぬ感傷か。

もしくは、こちらの思惑を阻止する何らかの手段を講じているのか。

それはありえぬ、と水邪は即座にその思考を否定する。

この娘に封魔の力があると言えど、魔を封じ込めるための形代がなければ何の役にも立ちはしない。

すなわち、封魔の娘は今此処にあっては、ただの無力な小娘に過ぎない。

ならば、超越者として下々の者に慈悲を施してやるくらいのことは構わぬだろう。

「よかろう。では今宵のうちに別れを済ませておけ。明朝、この小娘を贄として我らに献上せよ。」

葉月を悠然と見据えた水邪は、炎邪へと目を移す。

「ゴォルァッ!」

炎邪は岩の台座に向かい、そこで眠る子供の体を抱えあげた。

「ドラッ!」

片腕に子供を抱えた炎邪は、もう片方の手で葉月の腕を取り立ち上がらせる。

”結界”である岩屋へと、炎邪に引かれて行く葉月の背に、水邪の悠々とした声が届く。

「無論、貴様も仙を食する神聖なる朝餉に加わって一向に構わぬぞ。その気があるならばな。」




「ブラァ!」

岩屋の入り口に立った葉月は、

炎邪が腕に抱えた眠る子供を、岩屋の中へ横たえるのを見やっていた。

「ドゥシュッ!」

立ち上がった炎邪の手首の鉄輪から、一声と共に炎が吹き出し、彼は葉月を振り向く。

周囲が炎に照らし出され、炎邪の顔がはっきりと見えた。

「ドゥラッ!」

炎邪は葉月を見据えつつ、岩屋の中を指差した。

「あの・・・・・・炎邪さん」

「グルォッ!?」

意を決した葉月の呼びかけに、炎邪は彼女を見据える。

「あの……」

正面から見据えられて、葉月は刹那言葉を濁したが、目に力を込め炎邪を見返す。

「炎邪さん……私、ここから出たいって言いません。水邪さまに言われたように、ここにいます。

ずっといますから……代わりに、淑鈴ちゃんは出してあげてください。」

「……ジョルルゥゥゥ!!」

炎邪が首を振る。

葉月は、縋るような思いで訴えた。

「淑鈴ちゃんを殺したりしなくても、炎邪さんも水邪さまも、充分強いんでしょう?」

「ジェシャアッ!」

発する言葉の意味は相変わらず理解できないが、

炎邪の表情に僅かながらもためらいの色が浮かんだのを目にとめ、力を得た葉月はなお言い募る。

「昔、淑鈴ちゃんは生まれることができなかったんですよね。千年経って、今やっと生まれて来れたんですよね。

炎邪さんは淑鈴ちゃんに、いろんなこといっぱい教えてあげたかったんでしょう?」

「グルオオォォォォォォォ……。」

勢いをなくした唸り声は、戸惑っているようにも逡巡しているようにも聞こえたが、

葉月を見据えた表情は険しかった。

「ンゴオオォォォウ!」

炎邪は、再び首を振る。

「炎邪さん」

目にした葉月の胸に、絶望に似た思いが張り詰める。

「グガアァッ! ゴウゥッ!」

突如炎邪が声を張り上げ、葉月は身を竦めた。

「ゴゥラアアアァァァァァァ!! ボグラァ!!」

雄叫びに似た声と共に炎邪は葉月の肩を掴んだが、そこで動きを止める。

突如触れられたことで、彼女の目に浮かんだ怯えを見たからか。

しかし、炎邪は何事か考え込み、言葉に詰まっている様子だった。

「ボゴラッ!!」

突如炎邪は四股を踏むと、一目散に葉月の前から走り去った。

唐突に取り残された葉月の頭に、今のうちに淑鈴を連れて逃げる、という考えが浮かぶ。

でも、成功するだろうか。

忍びの訓練を受けているといっても、身一つで夜の山を、子供を連れて無事に逃げおおせることができるだろうか。

逡巡する葉月の耳に、

「ゴォ! ヴァァ──ッ!!」

炎邪の雄叫びが近づいてくる。

「ディゥグシャアァゥッ!」

炎邪は急停止すると同時に、いきなり葉月の手を掴み、彼女を岩屋の中に押し込んでから掴んだ手を引き寄せた。

「きゃっ!?」

尻餅をついた葉月の掌を開くと、炎邪はそこに人差し指を寄せる。

(……え?)

炎邪の人差し指が、三回葉月の掌で動いた。

「……あの」

続いて、直線と曲線が連続で踊る。

「炎邪さん」

さらに、最初のように三回の動きが繰り返され、軽く叩きつけるように直線が引かれ、

最後に炎邪の指は、点をひとつ、線と曲線を繋いで動いた。

(……文字? これ、字を書いてるの?)

葉月は炎邪の顔を見て瞬く。

「えぇと……”さ”、ですか?」

「ドグゴラァ!!!」

炎邪の顔に笑いが浮かぶ。

「次は……ええっと……確か”ん”……」

「ボッッゴラァ!!」

「それから、”さ”で……伸ばして……”ら”?」

「グォオオッォオオオ!!!」

炎邪が楽しげに吼えた。

「”さんさーら”って、一体……」

「グルッシャア!! ザンッッ! ザアアラァァァ!!」

炎邪は立ち上がると豪快に笑い、葉月の問いはその前に吹き飛ばされてしまう。

「ドゥルアァッ! ドゥルアドラァ!」

葉月は炎邪の意図がさっぱり飲み込めないままで、その笑顔を見あげている。

ただひとつ。

炎邪は淑鈴のことをもう諦めたのだ、助けてあげる意思はないのだということだけが、

諦念と共に重く心にのしかかって来た。

「ゴゥラアアアァァァァァァ!!」

雄叫びと共に、炎邪は葉月の前から走り去っていった。

膝の力が抜けて。

岩屋に取り残された葉月はその場に、崩れるように座り込む。

「助けてよ・・・・・・火月兄さん・・・・・・。」

昏い岩屋の中に、両手で顔を覆った葉月の弱々しい呟きが零れる。

「私、一体どうしたらいいの・・・・・・。」

手を降ろし、葉月は隣りに眠る幼子の寝顔を見やった。

夜目に映る白いふっくらとした頬、長い睫毛に縁取られた閉じた瞼。微かな寝息が聞こえる。

このままだとこの子は、淑鈴ちゃんは夜明けに殺される。

あの人たちに殺される。

兄弟子と慕って、危害を加えられるなんて思ってもいない人たちに。

その冷厳な現実を思うたび、葉月の胸は斬りつけられたように痛む。

止めさせたい。

できるものなら、そんな恐ろしいことは。

でも、あの人たちを止めることなんて・・・・・・私には・・・・・・。今の私には・・・・・・。

今の葉月には魔を封じるための媒体は何もない。

魔を封じるため、風間一族に代々伝えられてきたとされている神剣、蒼龍と朱雀はそれぞれ兄達の手元にある。

封魔の力は形代がなければ機能しない。

つまり、今の葉月にできる事は何もない。

目の前で眠っている子供に迫る死の運命を甘受し、傍観する他に手立てはないのか。

唇を噛んだ葉月の閉じた目から、涙が滲み出た。


淑鈴が寝返りをうち、小さく声を漏らす。

葉月は、はっと子供に目を移した。

「おとー、さん」

小さな呟きと共に、幸せそうな微笑みが寝顔に浮かぶ。


胸が締め付けられた。

眠る子供の小さな手に、葉月はそっと手を重ねる。

その時かちゃりと、金属の立てた音が聞こえた。

(え?)

子供の袖の中に、不自然な盛り上がりがあった。

葉月はこわごわと袖の中を探る。

指に、確かに金属片の手触りが感じられ、引き出したそれに葉月は瞬いた。

「これ・・・・・・かんざし?」

赤く長い飾り紐の下がった装飾品を彼女は見つめ、首をかしげる。

淑鈴と出会ってから今の今まで、一度も見た覚えがなかった。

隠し持っていたにしても、不自然な現れ方だった。まるで無から突如湧き出したかのように。

(淑鈴ちゃん、これをどこにどうやって持っていたんだろう?)

思いながら葉月は、かんざしにじっと見入る。意匠は大陸のもののようだった。

見ているうちに。

これを使う事が出来るかもしれない、葉月はそう思い出した。

眠る子供を彼女は見つめる。

「淑鈴ちゃん。淑鈴ちゃんがお父さんにまた会えるように、私、がんばってみるから・・・・・・。」

決意を篭めて、それを握り締める。



今は兄さんたちを頼れないもの。

私が、この子を守らなきゃ。




洞窟の中にも、外の朝の気配は僅かに漂っていた。

炎邪は大股に岩屋へと向かう。

かつて、妹分になるはずだった子供の命の終わる朝。

仕方のないことだ。

じきに生まれ変わってくる。

そこで炎邪は気持ちを切り替えた。

子供を糧にすれば、さらなる力を得て盟友水邪が喜ぶ。

「ボグラァ!!」

岩屋を覗いた炎邪は、そこに正座した葉月を見た。

その背後に淑鈴が眠り、葉月の真前には昨日まで存在しなかったものがある。

土と小石を寄せ集めて作ったらしい、小さな台座のようなものの上に、

紅い飾り紐を垂らした簪が、水平に置かれていた。

「ドアァッ!?」

妙にひっかかる。どこかで見たことがあるような気がしたが、

葉月が何のつもりでそうしているのかがわからず、そちらの方が気にかかった。

「炎邪さん」

葉月が口を開く。

「こっちへ来ないでください。」

低く、抑揚のない声。炎邪が初めて聞く声だった。

「フゥオ?」

立ち止まった炎邪は、目を瞬き葉月を不思議そうに見据える。

「それ以上近付いたら、私は封魔の力を使います。」

「グオッ」

炎邪の動きが止まった。

葉月は片手を、急ごしらえの土の三方に置いた簪に添え、

もう片方の掌を炎邪に向けた。



「グルオオォォォォォォォ……。」

炎邪は歯軋りしながら唸ったが、

岩屋に踏み込もうとはしなかった。

「グガアァッ!!」

踏み込めば、危うくなるのは我が身かもしれない。

「ウゥゴォオゴォオオ!」

止むを得ない。

炎邪は踵を返すと、盟友水邪に異変を告げるべく向かう。




「……神の行く手を遮ろうとは! 救いようのない愚物めが!」

炎邪に知らせを受け腰を上げた水邪は、顔を歪めて岩屋の前で毒づいたが、

しかし、水邪の足もそれより先に踏み出されはしなかった。

それは今や、文字通りに結界であった。

封魔の力を発動されればそれまで。

現世で動くことは叶わなくなる。

水邪はその場から呼ばわった。

「封魔の娘よ。今なら許してやる。小娘を速やかに我らへ献上せぬか。」

水邪を睨みつけたまま、葉月は首を振る。

「葉月」

呼びかけた水邪の声には、明らかに苦々しい棘があった。

「図に乗るな。神である我の寛容にも限度があるぞ?」

だが、水邪が手を出すより先に封魔の力が発動されれば……。

その時水邪は、葉月の得た”形代”に目を留めた。

「あれは、師娘の」

水邪が小さく呟いた。

「ゴウゥッ!?」

炎邪がその呟きに反応する。

在りし日の師娘(師の妻)の髪をまとめていた笄。

赤い房がよく映えていた。

死を迎えたときも、

ただひとつ生前と変わらぬ黒髪の輝きに、よく映えていたことを水邪は思い起こす。

千年の刻を越え、今封魔の娘葉月が水邪らに対する切り札として盾にしているその笄には、

無言で娘を護ろうとする師娘の魂が宿っているようだった。

(馬鹿な。最早世に亡き者に何が出来る。)

だが、これだけは確かだった。

この場を打開する手立ては五里霧中、完全な膠着状態であった。



そして水邪も、炎邪も、葉月も、また眠る子供も知る由はなかった。

今や彼らの隠れる洞窟に、

風が吹き、焔が迫り、水が流れ着こうとしていることを。





月光虹・急之序   月光虹・急之終

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