月光虹 序 |
「ボッゴラドッガァ―――――!!」 雄叫びが山々を駆け抜ける。 木々の間を、猿(ましら)の如く飛び移る影。 すれ違った枝が刹那に炎に包まれ、燃え尽きてどす黒い炭へと変わってゆく。 「グォラア!! ドラドラドラァァ―――――!!!」 炎邪、と呼ばれる、筋骨逞しい若い男の姿をした炎の魔は雄叫びをあげつつ山々を駆け巡る。 彼の盟友は言った。 封魔の娘は我らが手中。時は直に来たる。 我らの力を世に知らしめ、我らが完全なる存在となる時はまもなくだ。 「グルォオオオオオオ!!」 炎邪は、猛り逸る心のままに翔けていたが、その時ほんの僅かに感じられた気に関心を移す。 それは懐かしい気。遥か昔。 炎邪が、会うことを楽しみにしていたことのあった気だ。 この真下にいる。 急停止した炎邪はそれに向かって、真っ直ぐに突き進む。 小さな点にすぎなかったものの姿が段々明確となってきた。 一人の子供がいた。 紅い色の大陸の衣装をまとい、蒼い三角巾で肩を覆った、小さな体の娘。 銀色の長い髪が背に流れ、その一部は頭の両側に真ん丸く髻にまとめられている。 前髪は刃のように、顔の両側に落ちかかっていた。 子供は座り込み、足元の草花に夢中になっている。 凄まじい地響きで体が浮き上がったが、 子供はきょとんとした顔をしたのみだった。 すぐ近くに仁王立ちになっている、筋骨隆々とした姿。 噛みしめた唇の端から、絶えず漏れ出す白い蒸気。 熱気が陽炎となり、周囲の空気を焦がしている。 「グォォォォォォォォ・・・・・・。」 それに見据えられ、唸り声を間近に聞きながら。 大きな、くるくるとした瞳をぱちぱちと瞬いていた子供は、笑った。 喜びを一杯に溢れさせた笑顔。 「 炎邪は、空に目掛けて吼える。 「ボッッゴラァ―――――!!」 次の刹那に、炎邪は子供を掴み上げ再び空に翔けていた。 「ジョラジョラジョラァア!!!」 子供のいた平野は、瞬きの間に遠くなった。 「わー。」 炎邪の腕に抱えられた子供は、顔に叩きつけられ髪をはためかせる風の流れを面白いと感じていた。 (すごぉい。師兄、お父さんみたいにお空を飛べるデス。) 炎邪の咆哮もやがて、遠く遠く消えていった。 薄暗く、湿った空気のよどむ洞窟の中。 腰掛けたような姿勢で、中空に浮かんでいる人影があった。 真っ青な長髪を流した、整った顔立ちと筋骨隆々とした肉体を持つ男の姿をした、魔物。 水を自在に操る魔、水邪と呼ばれ今は当人もそう名乗っている。 (どうやら) 水邪は内心ほくそえむ。 (あの娘自身には、我らを封じる意思はないようだ。) 彼らが現世における憑代と狙う若き忍びの兄弟・風間蒼月と火月の本拠地である 風間の里より、朋友炎邪に命じて拐させた、”封魔の力”を持つ娘風間葉月。 怖れねばならぬのはあの娘の力のみ。 だが、その力を宿した葉月自身は害意も策略も勇気も持たぬ、ただの小娘にすぎない。 大人しくしていれば危害は加えない、その言葉のみで充分に封じておける。 これでとりあえずの危機は回避した。あの娘には直に使い道ができよう。 そう思いを巡らせていた水邪の元に、 「ドッグラァァ―――――!!」 豪放磊落な盟友の帰還が感じられた。 地響きに岩の壁までもがビリビリと震える。 「 言葉と共に目を上げた水邪の表情に、怪訝な色が浮かぶ。 「ドルァア!!」 朋友である炎邪の片腕に、一人の子供が抱えられていた。 「なんだ、それは。」 「ドゥルァ、ドラドルア―――――!!」 炎邪が、笑っていた。楽しそうに。 そして炎邪に抱えられていた子供は、水邪を見ながら目を瞬かせていたが、 花が咲いたように、嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「わぁ、 水邪の目が訝しげに細められる。 まさか千年の時を経て、その名で呼ばれようとは。 「何者だ、貴様は。」 射すくめるように水邪は子供を見る。 炎邪に抱えられていても腕を動かすことはできるようで、 もぞもぞと動いていた子供は服の袖にどうにかこうにか手を差し入れ前に突き出すと、軽く水邪に頭を下げてみせた。 「はじめましてデス、継海師兄。 「何?」 水邪の目に、訝しげな色が益々濃く増していく。 あれから千年。もって百年がせいぜいの人の身で、水邪のかつての名を知る者がいるわけはない。 だがこの娘は知っていた。 師兄、師妹という武侠の慣わしの呼び名も使っている。 それにしても解せぬ。 あの時、師の赤子は生まれ出ずることはできなかった。 何故、今この時に、この国に師の子と名乗るものが存在しているのか。 「貴様は・・・・・・我らの師であった、劉雲飛の娘と言うか。」 「はいデス!」 「自然に沸き出たわけでもあるまい。貴様を生まれさせたのは、父である我らの師か? ・・・・・・とすると、あの男も今この日ノ本に復活しているということになるか。」 「はいデス、継海師兄! お父さん、この国に来て”魔界の門”を閉じようとしてるデス!」 「・・・・・・ほう。では貴様を 「女神様の西王母さまと、お母さんと、お母さんの蓮花と、巫女のお姉さんたちデス、継海師兄。」 「西王母だと?」 大陸において、生と死を司りし最古の女神。そのようなものを呼び出したというか。 師娘(師の妻)の死はかつてこの目で見た。その胎内に宿っていた、赤子の末路も知った。 魂だけとなっても娘を生まれさせたということか。巫女、とこの娘が言ったところからして おそらくその力を借りてのことなのだろうが。 「さすが師の妻よ・・・・・・並ではないな。」 水邪は誰にも聞き取れぬ小声で呟くと、再び子供に射抜くが如き視線を向ける。 「貴様は西王母、などという過去の遺物によりて世に誕生したと言うが、それはもはや神の名には値せぬ存在。」 中空に浮かんでいた水邪は地に降り立ち、威圧するかのように淑鈴の目前に立つ。 「神と呼ばれるべき存在は、この 淑鈴はきょとんとした顔で水邪を見上げていたが、にっこりと笑みを浮かべて言った。 「でもー、継海師兄は継海師兄デス。」 水邪が眉をひそめる。 刹那に、 「我は神であり、我自身が神である事実であり証明である! 我の口、我の言葉、我の行動全てが神である事実であり証明であるのだ! 解ったら、我を神と崇め、平伏し称えるがよい!」 「ディグッシャア! ブラァ! ドッグラァー!」 水邪の言葉の度に、相槌を打つかのごとく楽しげに炎邪が叫ぶ。 淑鈴は水邪の言葉の間中、大きな目をぱちぱちさせ小首を傾げていたがやがて言った。 「でも、継海師兄デス。」 「愚物めが。」 水邪は、淑鈴を指していた指を薙ぎ降ろし、冷ややかな目で淑鈴をねめつけ背を向ける。 「言葉もまともに理解できぬ、神という概念も存在も理解できぬ虫けら同様の思考の持ち主に 我が神であることを認識するなど不可能か。好きに呼ぶがよいわ、愚か者が! ・・・・・・ただし。」 踊るように水邪は淑鈴を振り向く。 「我のことは大師兄と呼べ。」 「でもー、継海師兄。大師兄(一番上の兄弟子。高弟。)は 「徐雲龍か。奴にはじきに会わせてくれよう。それまでは我が大師兄、炎邪……戦波が二師兄である。」 「ハイ! 淑鈴そう呼びマス!」 「同胞よ。とりあえずこやつは、葉月と同じ結界の中に入れておけ。」 「ヴラァ!!」 炎邪は再び淑鈴を抱え上げる。 「わぁーい。」 遊ばれていると思うのか、淑鈴が嬉しげな声を出した。 ・・・・・・いつまでここにいなければならないんだろう。 薄暗がりの岩屋の中で、風間葉月は座り込んでいた。 大人しくしていれば殺されない。 でも、殺されないとしても、あの人たちは私をどうするつもりなんだろうか。 あの時、火月兄さんと喧嘩して里の外になんて飛び出さなかったら、こんなことにはならなかったかもしれないのに・・・・・・。 「兄さん」 泣いてもどうにもならない、わかっていても涙が堰を切って溢れ出しそうだった。 「ドンゴラボッガアァ―――――!!」 突如雄叫びが響き渡り、葉月は仰天して縮み上がる。 彼女を攫って来た妖魔がそこにいた。 腕に、一人の子供を抱えている。 「ドゥラッ!」 炎邪は、腕の子供を地面に降ろした。 銀の長髪を持ち、大陸の衣装をまとった幼い少女は葉月を目に留め、小首をかしげる。 「はれ?」 「ジョラジョラジョラァ!!」 雄叫びながら炎邪は、その場から走り去って行った。 まだ驚きから覚めやらない葉月の前に立った少女は、合わせた袖口の中に手を差し込み、葉月に弾けるような笑顔を見せた。 「新しい師姐ですカ? こんにちワ!」 「え?」 葉月は聞き慣れない呼び方に戸惑う。 「え、ええと、こんにちは・・・・・・。あなたは?」 「淑鈴は、お父さんの娘デス!」 「ええ?」 葉月はさらに混乱する。 (お父さんって・・・・・・えぇと・・・・・・この子のお父さんなんだろうけど、どこのお父さんなの?) 「師姐のお名前、なんですカ?」 少女は笑顔を葉月に向けたままで言った。 「え? ああ、私は風間葉月、ですけど。」 「カザマ、ハヅキ。じゃあー、葉月師姐ってお呼びしていいですカ?」 「い、いいけど・・・・・・。スーリンちゃん、だった? あなた、一体どうしたの?」 葉月は、心持ち声をひそめる。 「・・・・・・あの人たちにさらわれてきたの?」 「はいデス葉月師姐。淑鈴、戦波二師兄に連れて来られました。」 「じゃんぼ? ええと、ひょっとしてあの金色の髪の、じょらじょらーって言ってる人のこと?」 「はいデス。戦波二師兄は、武侠としての二つ名は”暴爆噴虎”って言いましタ!」 「・・・・・・ぶきょう?」 「余計なお喋りはそのくらいにしておけ。」 またも突如として聞こえた声に、葉月の体が竦む。 水邪がこちらをねめつけていた。 「あ、継海大師兄!」 「とりあえず、ここで葉月と大人しくしていろ。良いな?」 冷たい視線が、突き刺すように子供に向けられる。 「はーい、デス!」 淑鈴は満面の笑みを浮かべ、片手を大きくあげて答えた。 続いて水邪は、葉月に目を向ける。 「お前も一人では寂しかろう。しばらくこやつの面倒を見ておいてやれ。」 水邪は背を向けると、足元の水溜りに潜るように消え、この場を去った。 葉月は、おずおずと子供に目を移す。 淑鈴は、葉月を見返すと、また笑った。 「同胞よ。」 顎に手をやり、何事か思い耽っていた水邪が炎邪に語りかける。 「ゴォオッ!?」 「遥か昔のこととなったが、太師父の話を覚えているか。」 「ンゴゥルァッ?」 太師父とは、武侠の世界である武林において、師匠の師を指す呼び名である。 すなわちこの場合は、炎邪水邪にとり師・劉雲飛の師に当たる。 「かつて、師が陋劣なる邪派の者どもに果し合いを申し込まれ、以後十日戻らなかった時があったな。 同時に師娘の姿も館から消えていた。 我ら八人が手を尽くしても見つからず、見つけられたのは師に果し合いを申し込んだ邪派の者どもの、 剣と内功による死骸のみだった。 手の打ちようがなくなった頃、太師父が突如訪ねてきて言うことには・・・・・・。」 水邪の唇が笑みに歪む。 「お前たちに、じき仙の師弟か師妹が生まれるぞ、と。」 「グルジョワッ!」 「太師父ははっきりとは言わなかったが、あの事件を契機に師と師娘の間には仙の子を宿す” ということのようだ。しかし、生まれることはなかったな。」 それからしばらくの後。闇キ皇と呼ばれる妖魔が、彼らの師劉雲飛の体を乗っ取り長安の町を破壊した。 最初に犠牲となったのは、彼らの師娘、雲飛の妻だった。 思い起こされる惨劇。慨嘆の咆哮が響き渡っていた師の館。 「戦波! 戦波!」 肩を掴んで揺さぶる。 彼の滂沱と落ちる涙と、獣のような嘆きの咆哮は止まることがなかった。 崩れ落ち、拳を握り叩き付け、力の限り泣き喚いている彼の前には、 かつて仙女と喩えられた、師娘であったものが横たわっていた。 赤い肉の色。覗いている白い骨。黒ずんだ血の海。 剣により斬殺された師娘はさらに腹部を裂かれ、そこで生まれる準備をしていたはずの赤子はいなかった。 「あの時闇キ皇は、生まれついての仙である赤子を喰らうことにより、さらに力を高めた。 そして今、闇キ皇から”人魔一体の秘術”を奪うことに成功した我らの前に、 仙として生まれ出た小娘がいる。」 「グォルァー!?」 「何故にわかるか、と? あの小娘は、自分が生まれ出たのは西王母と母、巫女たちの力によると言った。 それ以外に”蓮花”と口にしていたであろうが。 おそらくは天人を誕生させる”蓮華化生”。あれは並みの人間の生まれではない。 一度たりとも現世で逢うことのなかった、我らの名を知っていたのだからな。」 水邪は笑みを浮かべ、炎邪を見据える。 「これを瑞兆と言わずして何と言う? 同胞よ。」 「グェッ? グルォオォ・・・・・・。」 「そうだ。仙を喰らうことによって我らの力はさらに高まり、 対の創造神・破壊神たる至高の存在へと、また一歩近づけるのだ。」 「ブラァ!!」 炎邪が立ち上がった。 「何?」 「ゴルァ! ディグシャアァゥッ! ボッゴルァァア!!」 歯を噛みしめ、叫びながら腕を振り上げている。 「神にそのような感情はいらぬぞ。戦波。」 敢えて、そう呼んだ。 炎邪が唇を噛みしめ黙りこくる。 「理解したか?」 「ゴォウォオオォ・・・・・・。」 珍しく勢いのない答えだった。 水邪は思い出す。 おそらく、師である劉雲飛を除いては、その子の誕生を最も心待ちにしていたのは彼だったと。 幾度かその光景を見かけた。あの惨劇の起こる以前に。 子を宿した師娘の側で待ち遠しげに、嬉しそうに笑みを浮かべていた、邪気のない純朴な姿。 普段は気がいいが一度頭に血が上れば暴虎、と恐れられていた男と同じ人間とは誰も思わなかっただろう。 「仕方あるまいな。」 水邪は苦笑する。 「しばし、お前の気の済むようにするが良い。 ただし、我とてそう気長に構えてはおれぬぞ。 決して怖れているわけではないが・・・・・・。」 「ンドゥラァッ!?」 「師がこの日ノ本に来ている。」 「グォッ。」 炎邪の動きが、刹那止まった。 「娘が見えなくなったとなれば探すだろう。 あの男の前では、この場所でもそうそう長くは隠せまい。」 「グジジジンゴゴゴグァ―――――!!!」 炎邪は両の拳を握り締めて吼える。 「そうだな。今の我らは師をも超えていよう。 とは言え、早く済ませておくに越したことはあるまい?」 「ディグッシャアァァ!!」 炎邪が、大きく頷いた。 「待ってろ、葉月。絶対見つけてやるからな!」 風間火月はそう呟く。 里から消えた妹、葉月の手がかりは今のところ全くない。 ただ、里を飛び出し探索するうちに、この山の付近の村で近頃不気味な咆哮を稀に聞くようになった、という話を耳にした。 葉月と関係があるのかどうか、それすら不明だが。 里の外が火事になったのも、葉月をかどわかした何者かの工作だったのかもしれない。 何もかもが、ただの推測の域を出ない。だが火月は心に誓っていた。 俺は絶対、諦めねぇ。 その時、火月は僅かな気配を感じ取る。 とりあえず、木陰に身を隠す。 こっそり眺めやった目に映ったのは、暮れなずんだ空に浮かぶ、人の影。 長い白髪を靡かせ、顎に髭を蓄えた、遠目にも矍鑠(かくしゃく)としていることの解る老人。 「・・・・・・なんだ? ありゃ、飛んでるのか?」 火月は目を凝らした。 ただの老人でないということだけは明白だった。 大木の天辺に降り立った老人は、手にした青竜刀を自身の正面に真っ直ぐ立てると、刀身に掌を添え目を閉じる。 ややあって、目を開く。 「精気も尸気も感じられぬ。気を遮断する場所にいるか・・・・・・閉じ込められたか。」 捜し求める者の気の代わりに、この付近では時折僅かに不可解な気が感じられる。 炎や溶岩に似た熱さをまとった、邪な、そして何故か、かつて何処かで感じたことがあるような。 妙に懐かしさを呼び起こす気。 淑鈴の姿が失せたことと、何らかの関係があるのか。いずれにしても。 必ず見つけ出す、と。 この老人・・・・・・千年前、唐の時代の大陸で武侠であった劉雲飛は、心に誓っていた。 |