雨礫〜花諷院骸羅〜(1)


地に、木々に、大気に。激しく叩きつけられる雨音のみが辺りを圧し、

天の下の全ては、下る雫に濡れそぼつ。

刃の下に動かなくなった獣とて、例外ではない。

雨に打たれる鮮やかな黄の毛皮に、点々と散る黒い斑点。

遠い南蕃の地で。

この獣を畏れつつ敬する人々は、それを星と見ていた。

すなわち、獣は星を抱く夜空であり、それを象徴とする闇の神でもある。

獣を屠った刀を手に、少年は雨に濡れている。

彼は激しい雨脚の元、手にした傘をかざし、己が斃した獣を見下ろす。

着衣は血と雨に湿り切っている。傘を差す意味がないと思いつつ、少年は獣の死骸を見ていた。

目と、牙のある口とをくわりと開き、舌を垂らしたままで硬くなった獣の鮮やかな毛皮には、

切り裂かれさらに突き刺された緋の筋が、あまりにくっきりと残る。

(さすがは鬼を屠るもの)

雨の中で、その少年、緋雨閑丸の脳裏に声が響く。

宙に浮かびあがる透明な姿。

金色の髪を持ち、蒼と白と黄金に彩られた伴天連の衣装に身を包んだ男。

その向こうに、雨に煙る森が透けて目に映る。

「しつこいな」

声を低め、閑丸は冷たく呟いた。

「あんたは、鬼じゃない。だから僕はあんたに用はない。」

(汝が無用であろうとも、汝に動かれては我らの障りなものでな)

透明な男が邪悪に笑んだ。

(近いうちに滅してくれようぞ)

男の姿が水煙に掻き消え、同時に閑丸が確実に屠ったはずの獣の姿も跡形もなく失せた。

ふぅ、と閑丸はため息をつき、手にした刀……大祓禍神閑丸を背の鞘に収める。



あの村から、伴天連の姿の男は閑丸を追って来る。

時折旅の最中に、あの視線を感じる。

まさに刃そのものの、慈悲も温みも欠片もなき視線。

それがずっと、突き刺すように閑丸を追って来る。



銀の雫がか細い針のように降りしきる中、村に入る前の出来事を、閑丸は思い出していた。

鬼を探すあてのない旅の最中であった。

鄙びた地の古く小さな社に続く石段に腰を下ろし、糒(ほしいい)で簡素な食事をとろうとしていた時に、

閑丸は人の気配に気づいた。

目を上げると、映ったのは大きな姿と小さな姿。その二人は僧形である。

小さな姿の、編み笠を被り錫杖を手にした僧侶が、辻に腰を降ろし何事か唱えているようだ。

巨体の僧侶、しかし頭を丸めていない若い男がその背後に立ち、

恐ろしい形相で仁王立ちになっている。

「これはよくないのぅ。」

と、小柄な僧侶の声が聞こえた。

その声と、上げられたにこやかな顔に刻まれた皺と白い髭で、僧侶が老人であることが見て取れた。

「この瘴気は只事ではない。間違いなく、この先の村におるのは人にあらざるモノじゃ。」

「今更何言ってやがんだ! ジジイ!!」

老僧侶の背後で、巨体の若者が大声を轟かせ、閑丸は思わず肩を竦める。

「だから俺たちゃあ、枯華院からわざわざここまで出向いてきたんだろうがよ!

人でねぇもんが居座ってやがんならさっさと祓ってやらねぇと、村の衆がえらい迷惑すんだろうがぁ!」

言うなり巨体の若者は、肩からかけた巨大な数珠を負けていない大きな掌で叩くと、

小柄な老僧侶を跨がんばかりに大きな素足を踏み出した。

「待たんか、骸羅。」

のんびりと、だが有無を言わさぬ調子で老僧侶が野坊主に声をかける。

「早まるでないぞ、未熟者め。このままおめおめと乗り込んでいっては、お前もワシもおそらく無事には帰れまい。」

「なんだァ!?」

若者は振り向き目を剥いたが、歯を剥き出しに笑いつつ老僧侶を見下ろした。

「ハッ、ビビってやがんのかよジジイ? 心配すんじゃねぇや! 何人手勢がいようが、俺が残らず蹴散らしてやらぁ!」

そう拳を握った若者を、

「バカ者が。」

一言、老僧侶は制した。

そのたった一言の低い声には、小柄な体に似合わぬ底知れぬ威圧感があった。

「ワシの打った式が戻ってこん。自慢ではないが、このようなことは今まで一度もなかったでな。

村を手中にし、邪教を広めているというあやかしの者は、尋常ならざる霊力を有しておる。」

どっこいしょ、と立ち上がった老人は、被った編み笠に手をやりながら若者を振り向く。

「今のお前では、ひとひねりで仕舞いじゃろうて。」

「なっ、なんだとぉ!?」

「骸羅。ここはひとまず退散じゃ。村を救いあやかしのモノを滅するためには、こちらも霊力をさらに高めなくては話になるまい。」

「なっ・・・・・・納得いくかよ、んなもんで! この臆病もんのクソジジイが!!」

「早く来んか。」

小柄な老僧侶は手にした錫杖で、若者を小突いた。

歩き出した老僧侶の後ろを、今にも襲い掛かるのではないかと思われるほど物凄い形相で、骸羅と呼ばれた巨体の若者が続く。

「クソったれッ!」

骸羅が、片足でどすんと地面を踏みつけた。

首をすくめた閑丸の側を通りがかった時、老僧侶は立ち止まった。

「坊も帰りなされ。ここは人が迂闊に立ち入ってはならぬ所じゃ。」

「あ、あの!」

閑丸は立ち上がり、咄嗟に声をかけていた。

歩み去ろうとしていた老僧侶が、閑丸を振り向く。

「あの、お坊様。お坊様は鬼について何か知りませんか。」

「鬼、とな?」

老僧侶の声に怪訝な様子が滲んだが、

閑丸を見た顔には柔和な笑みだけが浮かんでいる。

「・・・・・・さぁて、この老いぼれは知りませぬのぅ。坊。今は、あすこの村に立ち入ってはなりませぬぞ。」

そして老僧侶と、骸羅という名の若者の二人は歩み去り、閑丸の視界から消えた。



二人の姿を見送っていた閑丸は、

反対側の辻に目を移す。

目に映る鬱蒼とした森の向こうの、暗い山を背にした村。

老僧侶の言葉によれば、人ならぬモノが居座っていると言う。

それは、彼の探す鬼なのだろうか。

「・・・・・・行かなくちゃ。」

呟いた閑丸は、腰掛けていた石段に立てかけていた番傘、

霧雨の柄を握り歩き出す。



その決意のために、閑丸は伴天連の衣装をまとったあやかしのものに追われることとなったのだった。


一方。

すれ違った少年の姿がとうに見えなくなった頃合いに、

巨体の野坊主、花諷院骸羅は後ろを振り向いていた。

彼としては珍しく、妙に心にかかることがあったのだった。

「やい、和尚!」

骸羅は先を行く老僧侶、花諷院和狆に呼びかけた。というより怒鳴りつけた。

「さっきのちっちぇえボウズのことだがよ!」

「怒鳴らんでもええ。ワシゃまだそんなに耳は遠くなっとらんぞ。」

「あのボウズ、なんで雨も降ってねぇのに番傘なんぞ持ってんだ?」

「さぁての。坊の旅路に要るもんなんじゃろう。」

「適当なこと言ってんじゃねえぞ!」

和尚にして親代わりも同然の和狆にそう怒鳴り返すと、

骸羅は再び振り向いた。

「気になっておるようじゃの。」

「あぁ?」

和狆の言葉に骸羅は目を剥き出す。

(なんか、こう・・・・・・妙な感じのボウズだったよな。)

そう思ったものの、少年のどこがどう妙だったのかは自分でもわからなかったし、

ましてや和狆に上手く説明できる自信もなく、それよりも理解することと説明することに億劫さを感じ始めた骸羅は、

(ッたく、めんどくせぇ!)

そう心に唸るに止めておいた。




僧侶の花諷院和狆。その小柄な姿と穏やかな風貌を見た者誰しもが想像もつかないことだったが、

若き日の和狆は、剣術を以って魔を滅することを生業としていた。

数多くの魔物を屠った生業を廃してからは僧侶の生活を送ってはいたが、二人の男を弟子として剣術を教えたこともあった。

花諷院骸羅は、今の和狆が住職を務める寺である枯華院のふもとの村の出であり、

体が大きく人一倍乱暴者だったために枯華院に預けられ、和狆の元で仏道修行の日々を送っていた。

もっとも、骸羅自身は修行と称して各地を巡り、血の気の多い者たち相手に喧嘩三昧で日を過ごす事も多々あったのだが。

あやかしの居座った村を後にして幾日かが過ぎ、和狆と骸羅はようやく飛騨の入り口まで帰り着く。

枯華院が近づいてきた頃、二人は茶屋で一服していた。

「同じ瘴気じゃのぅ。」

煙管を口にしている和狆がそう呟いたのを、骸羅は耳にする。

「骸羅。」

「なんでぇ。」

運ばれてきた団子を頬張りつつ、骸羅は答える。

「振り向かんでええ。目だけを向けるんじゃぞ。あすこの旅のものたちじゃがな。」

和狆は煙管の先でついと、その方向を示す。

「娘さんが二人おるじゃろう。」

「あ?」

骸羅は言われたとおりに、目だけ動かして和狆の示す旅人たちを見る。

和尚が慎重な物言いをする時は、従った方がいい結果になる。

骸羅はこれまで和狆の封魔に幾度か立ち会い、大抵の出来事は気にも留めぬがこのことだけはしかと心していた。

魔を祓うことの重要さは彼も知っている。

そして、邪魔をした後の和狆の仕置きのきつさも、また身に沁みている。

「あの、やたらひょろ長い奴の隣だな?」

”ひょろ長い奴”は全身を白い布で隠しており、顔も姿も見て取れない。

その隣には、和狆の言葉どおり二人の娘が腰掛けていた。

見ねぇ柄の着物を着てるな、と骸羅は思う。

一人は長い髪の、すらりとした若い綺麗な娘で、

もう一人は短い髪の、小柄で大きな目をした子供だ。なかなか可愛らしい。

「ワシゃ、今からそのひょろ長いお人に話があるでな。

万が一の時は、お前が娘さんたちを庇ってやれい。」

「和尚」

骸羅は、彼としてはかなりの労力を使って声をひそめる。

「んじゃ、あのひょろ長いのは物の怪か?」

「慌てもんが。そう決め付けるのは早かろうて。」

どっこいしょと、和狆は立ち上がる。

団子を一気に口に放り込んだ骸羅は、ぎっと旅人たちに目を据えた。

茶を口に運んでいた子供の方がその視線に気づき、ぎょっとしたようだ。

子供は隣の娘の袖を引こうとしたが、

娘は、自分たちの方に近づいてくる小柄な僧侶を注視していた。

「お前さん」

穏やかに、のんびりと、笑みさえ浮かべて。

巨体の者の前に立った和狆は話し掛ける。

「魔物と・・・・・・かかわったようじゃね?」

白い布が動き、

その者が和狆の言葉に反応したのが見て取れた。



「・・・・・・オマエハ?」

片言の声が布の下から聞き取れた。

「申し遅れたの。ワシは花諷院和狆。この先の、枯華院という寺の住職をしておりましてな。」

和狆は穏やかに笑みかける。

「昔の生業が縁で、今でも時折魔物退治を引き受けることがあるんじゃよ。じゃから悪い気には、人より少しばかり敏感でな。

お前さんは・・・・・・。」

穏やかな目の中に、刹那冷徹な光が宿る。

「ここしばらくのうちに、強大な瘴気に触れるようなことがあったかね?」

白い布の下からは、沈黙のみが返って来た。

「ちょっと。」

隣に腰掛けていた、白に紫の縁取りがある衣装をまとう長い髪の娘が、和狆を軽く睨んだ。

「こいつに悪い気なんかあったら、今頃呑気に私の隣に座っていられないわよ。」

「クンネ・・・・・・姉さま。」

娘の隣の小柄な少女が、そう声をかける。

「いやいや、お嬢さん。このお人が悪い気を発しておるというわけではないんじゃ。

触れた後がほんのわずか残っとる、というだけのことでのぅ。」

「・・・・・・黒イ、神ノシルシ。」

白い布の下から、再び片言の言葉が漏れる。

「たむたむ、黒イ神ニシルシヲツケラレタ。ソノシルシヲ外セルノハ、黒イ神自身ト、我ガ神けつぁるくぁとるダケダ。」

「ふむ。」

和狆の表情に深刻さが増したが、目の前の者には柔和な笑みのみが、変わらず向けられていた。

「その黒い神について、少々話を聞かせていただけませんかの?」

「ナゼダ。」

「ある村にあやかしが居座っておりましてな。退魔を頼まれたんじゃが、

恥ずかしながら何の手がかりも掴めなかったところ、

お前さんから同じ瘴気の余波(なごり)が感じられたのでな。知っていることを・・・・・・」

途端に、白い布を纏った巨躯が立ち上がった。

その刹那、

「おりゃああ!」

雄叫びと共に、骸羅は肩から巨漢に突っ込んでいた。



紫の衣装の娘が隣の少女を庇いつつ立ち上がり、少女は悲鳴を上げる。

「骸羅!」

和狆の怒鳴り声。

「野郎っ! なんだそのツラはぁ!! って、面か! なんでそんなもんつけてやがる! ツラを見せやがれっ!!」

引っ繰り返された巨躯に馬乗りになった骸羅は、怒鳴りつつ白布の下から現れた天狗のような面を剥ぎ取ろうとしていた。

途端、骸羅の顔面を大きな掌が薙ぎ払う。

「神ノ面ニ手ヲツケルナ!」

怒号と共に男は立ち上がり、白い布は体から外れ、

紅い布を纏った逞しい体と、鬼のような面が露わになっていた。


茶屋の者が、男を見て悲鳴をあげる。

「バカッ! 早く被りなさい!」

紫の衣装の娘が白い布を拾い上げ、男目掛けて投げつけた。

「この愚かもんが! いらん騒ぎを起こすでない!」

和狆が、身を起こそうとした骸羅を怒鳴りつける。

「ジジイ、助けてやったのにその言い草はねえだろうがよ! 今頃ぺしゃんこにされてたかもしれねぇんだぜ!」

「カ〜〜〜ッ、早とちりでいらん気を回しおって!」

「止めっ!!」

高い大声に、その場の全員が動きを止めた。

「駄目っ! 力任せはいけませんっ!」

骸羅と、男との間で、小柄な少女が肘を張って立ち塞がっていた。

「無駄な争いをする人には」

きっとした表情で、少女は骸羅を睨みつける。

「アイヌの戦士見習いリムルルが、姉さまに代わって大自然のおしおきをしますからねっ!」

そして彼女は、背後の男を振り返った。

「タムタムさんも怒らないで。暴れたって、いいことないでしょう? 許してあげて。」

少女・・・・・・リムルルを見下ろしていたタムタムは言った。

「サスガニ、なこるるノ妹ダナ。」

心の中だけで、ソシテれらノ妹、と付け加える。

「そうよ。私のかわいい妹分なんですからね。」

紫のナコルルが口を挟み、満足そうに笑った。


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