樹雨〜リムルル〜(1) |
そして日ノ本の國で。 あやかしのものは、蠢き出していた。 しとしとと、小粒の雨垂れが木の葉を打つ。 マタンプシ(鉢巻)を伝い落ちてきた水滴を、リムルルはテクンペ(手甲)をつけた手で拭った。 雨は、止む気配を見せない。 細かな水滴が、いつまでもいつまでも、ぱらぱらと万物に降りかかる。 木陰で雨宿りをするリムルル。今、彼女は一人だった。 カムイコタンから彼女に付き添ってきた狼、シクルゥは彼女の側にはいない。 数日前。レプンモシリ(本州)を旅する彼女の元に、 カムイコタンから飛んできた、足に手紙(テシカル)をつけた蒼い鷹・・・・・・ 飼い主によって、何故かヤトロ(鳶)と名づけられていた・・・・・・が、 リムルルがナコルル以外でサポ(姉)と呼ぶ女性のレプンモシリ来訪を告げた。 「え〜・・・・・・。来ちゃったんだ・・・・・・あの人。」 テシカル(手紙)を読んだ時、リムルルは困惑した声を出したものだ。 一般のアイヌプリ(アイヌの風習)に文字はなく、手紙のやり取りもないのだが、 カムイコタンにだけは特殊な文字が伝わっており、手紙をやり取りすることもあった。 ただし、文字を使うのはカムイノミ(神事)やトゥス(巫術)に関わる、ごく一部の村人のみだった。 シクルゥはそんな彼女を見ていた。 「アイヌの戦士は一人、って決まってるのに。・・・・・・いくら姉さまの行方がわからなくなったからって・・・・・・。」 しばらく気落ちした様子だったリムルルは、顔を上げると傍のシクルゥに告げる。 「ね、シクルゥ。あの人のところに行ってあげてくれない?」 クォウ、と抗議するかのように狼は鳴いた。 「ん〜、ホントはね。あの人だったら大丈夫な気もするんだけど。 でも、レプンモシリに来るのは初めてでしょ? あの人。 もし何かあったら・・・・・・姉さまが悲しむと思うんだ。なんだかんだあっても、幼なじみだもん。」 シクルゥに向かってリムルルは微笑む。 「だから、ね? 行ってあげてシクルゥ。私なら大丈夫よ。コンルがついてるんだもの。」 狼は、彼女のテクンペ(手甲)を嵌めた手に幾度か鼻を摺り寄せ、 身を翻し、守るべきものの言葉を遂行するために立ち去っていった。 そうして、姉の手がかりを捜し一人旅を続けていたリムルルは、今山の中で雨宿りをしている。 ふと。 銀鼠の色の、空に詰め込まれた雨雲を見上げるうちに、リムルルは思い出す。 昔、故郷アイヌモシリの草原で、姉ナコルルと過ごした時のことを。 「姉さま、姉さま。お花、綺麗だね。」 小さいリムルルは、一面の花に埋もれた草原ではしゃいでいた。 彼女の大好きな姉は、側で微笑を投げかけながらリムルルを見ている。 「リムルルは、自然のことが好き?」 「うん。リムルルはノンノ(お花)も、ニタイ(森)もペツ(川)も大好きだよ!」 満面に笑みを咲かせてはしゃぐ妹リムルルを、姉のナコルルは微笑を浮かべながら見つめていた。 「このモシリ(世界)はね、リムルル。お互いを育てあっているの。」 「育てあう?」 小さなリムルルは、首をかしげて姉を見つめる。 「そう。ウレシパ・モシリ。互いに育てあう世界。 人は人にだけ育てられて、生きていくんじゃないのよ。川も、大地も、森も、空も。 それらがあるからこそ人は生きていける。人は大きくなれる。つまりね、人はこの大自然すべてに育てられているの。」 「川も、大地も、森も、空も。みんなが、リムルルや姉さまを大きくしてくれるんだね?」 ナコルルは、にっこりと微笑んだ。 だが次の刹那、姉の表情がほんの僅かに曇る。 「でも・・・・・・それがわからない人もいるの。ううん、きっと忘れてしまっているのね。」 「誰が、忘れてしまってるの? 姉さま。」 「自然を傷つける人たち。どんな人も、どんな生き物も、自然によって生み出され、自然によって育てられた。 自然は、そこに住まう人や動物たちに必要なものをちゃんと与えてくれる。 それなのに、満足できない人がいるのね。」 そう言って、遠くの空を見やる姉の瞳は、とても寂しそうだった。 「世界の人みんなが、自然と共に生きてる、自然に生かされてる、そのことに感謝する気持ちを忘れなかったら・・・・・・。」 「姉さま」 小さいリムルルは立ち上がり、姉の側に寄り添う。 「姉さま、姉さまどうしたの? 悲しいの? 大丈夫だよ、姉さま。リムルルがいっしょにいるから。」 ナコルルは、妹に微笑んだ。 寂しい光を、瞳に宿したままで。 幼きリムルルは、姉にしがみついた。 「姉さま! リムルルはずぅっと、姉さまといっしょにいるからね。 姉さまが悲しくならないように、寂しくないように、ずぅっといっしょに。」 ナコルルは、必死にそう語りかけてくる妹を抱きしめ返した。 「ウレシパ・モシリ。互いに、育てあう世界・・・・・・それを忘れてしまった人たち。」 雨を恵んでくれる、雲が詰められた空を見上げつつ。リムルルは、そうぽつりと呟く。 姉さまは、カムイの巫女として、自然を守るために戦っている。 何から守るのだろう。 自然を汚すウエンカムイや、自然に感謝することを忘れ、傷つけて何とも思わない人たち。 そのために姉さまは、 あんなに優しい姉さまは、 宝刀チチウシを振るって戦わなければならない。 私は、そんな姉さまの為に何か力になれたら、ってずっと思ってきた。 巫女の力も、刀の技も、ちっとも姉さまには届いていないけど・・・・・・。 今私は、姉さまの力になれるの? 姉さまを見つけ出すことが、姉さまを助けることができるの? リムルルの中で、不安が膨れ上がってゆく。 その時、水晶を鳴らすような音が微かに響いた。 「コンル。」 リムルルに付き従う友だちの精霊。 コンルなりに慰めてくれているんだ、と気づいたリムルルは微かに笑った。 雨を踏みしめる音がする。 人の足音だ。 リムルルはびくりと身を縮めたが、腰の後ろに結わえた彼女のメノコマキリ、ハハクルの柄に手をかける。 コンルの姿は消える。 だが、コンルの気がすっと冷たくなり、何かあればリムルルを援助する戦闘態勢となったことは感じ取れた。 青い蛇の目の傘が、雨に煙って見えてきた。 足音が、止まる。 「あのぅ・・・・・・一人?」 赤みがかった髪を、後ろでまとめた大きな目をした少年。 その背中に、紅い珠のついた刀を負っていた。 彼はリムルルを目に留め、不思議そうに瞬いている。 「この辺りの人じゃ・・・・・・ないよね。見たことない着物だし・・・・・・。」 リムルルに近付いてきた、少年が腕を差し伸べる。傘の下で雨が途切れた。 どうやら、リムルルを傘に入れようとしたようだ。 「あ……ありがとう。」 リムルルはハハクルから手を放し、少年に軽く頭を下げた。 「あのぅ・・・・・・。何処か、泊まる所とか、ないんです・・・・・・か?」 少年は、リムルルに尋ねた。 「今日は、もう山を下りられないから。ここで過ごすつもりだけど。」 少年が目を瞬く。 「あの・・・・・・それは、危ないと思うよ。女の子が山の中で一人なんて。」 「平気よ。私、これでも外で過ごすのって慣れてるから。」 「そう、なの? ええと・・・・・・。あなたは遠いところから来たの?」 「アイヌモシリから来たの。私はリムルル。あなたは?」 「緋雨閑丸。」 少年はそう名乗った。 緋雨閑丸と名乗った少年も、山越えの最中だった。 二人はとりあえず、見つけた大木の洞で雨を凌ぐことにした。 「私、姉さまを探してるの。」 リムルルは閑丸に言う。 「お姉さんを?」 閑丸が小首をかしげる。 「閑丸くん、もしかしてどこかで見かけなかった? 私と同じような格好をしているの。 髪が長くて、大きなクキウ・レタラを連れてるの。」 「え?」 閑丸は戸惑いも露わに、目を瞬く。 その表情でリムルルはようやく、カムイコタンの言葉を少年が解さないことに気付いた。 慌てて言い添える。 「あ、クキウ・レタラって鷹のことよ。姉さまの名前はナコルル。カムイコタンの巫女なの。」 「そうなんだ。カムイ、コタンって・・・・・・よく知らないけど蝦夷地の言葉だね。悪いけど、そういう人に会ったことないよ。」 リムルルは肩を落とす。 カムイコタンを出て、レプンモシリ(本州)に辿り着いてから今まで、姉の手がかりの切片も掴むことはできていない。 こうしている間にも、姉さまの身にどんな恐ろしいことが起こっているかしれないのに。 「あの・・・・・・。」 戸惑った声を聞き、リムルルは目を上げた。 目の前で閑丸が、おどおどとした色を目に浮かべて彼女を見ている。 心配をかけてしまった、と気付いたリムルルは咄嗟に笑顔を作ってみせた。 「大丈夫よ。」 閑丸は、ほっとした顔になる。しばし、雨の音だけが二人の間に流れた。 「リムルルさんのお姉さんは、ここまで何しに来たんだい?」 閑丸が訊ねる。 「うん……何ヶ月か前のことなんだけど、姉さまは助けなくてはいけないものがいる、って言って旅立ったの。」 「助ける? 蝦夷の巫女さんって人助けをするの?」 「ううん。別に人助けをするわけじゃないの。カムイの巫女は、自然の中のカムイの声を聞くことが出来る者だから。 もし、自然が助けを求めていれば、それをどうにかするのも巫女の役目なの。 そういうことは、姉さまみたいな力のある巫女でないとできないから。私じゃ、まだ力が足りないんだ。」 僅かにうつむいたリムルルを気遣ったのか、閑丸は少し考えてから言葉を続ける。訊ねることを捜していたのだろう。 「じゃあ、お姉さんが助けようとしていたのは自然なんだね?」 「自然を乱すものなんだって。」 リムルルの言葉に閑丸は、大きな目を不思議そうに瞬いた。 「自然を乱すもの? だったら、それはお姉さんにとって敵じゃないの? 巫女は敵まで助けなくちゃならないのかい?」 「私にもよくわからない。でも姉さまは、自然が乱されて苦しんでいるのと同じくらい、その者も苦しんでいるって言ったの。 なんて言ってたかな・・・・・・その苦しんでいる者は、"鬼"なんだって。」 何気なく閑丸の方を向いて、リムルルの心は刹那に張り詰めた。 彼の目に、それまでとまったく違う色が浮かんでいる。 「鬼・・・・・・お姉さんは、鬼って言ったんだ?」 リムルルは吸い寄せられたように閑丸から目を逸らせず、一言も発することもできなかった。 尋常でない瞳の色。 「鬼を救わなければいけない、そう言ったんだね?」 閑丸が、僅かに身を乗り出す。 「でも僕はその前に、鬼に会わなければならなんだ。」 その時。 思わず逃れるように後ずさったリムルルは、目の前に、まったく別の光景を見ていた。 彼女の目の前は、真っ赤に煙っていた。 雨が降っている。 その雨は、何故か赤い色に煙っている。 荒涼としたその場所に、まばらに生えている侘しい姿の木々が、何か猛々しく無慈悲な力のために、無残になぎ倒されていた。 赤い雨に煙る視界の中に、小柄な姿が映る。 その手に握られているのは、不釣合いに大きすぎる太刀。 真っ赤な景色の中で、それだけが、白く鈍く光を放っていた。 小柄な影が振り向く。 虚ろな目の少年。 閑丸だった。 彼は、見ているリムルルに気づき、ゆっくりと近づく。 リムルルは動けない。 怖い。 怖い。 姉さま、助けて。 そう叫びたかった。 声は、喉の奥で枯れ果てていた。 「君は、鬼なの。」 低い声で閑丸が呟く。 目を見開いたまま、リムルルは答えることができない。 「鬼なら、僕は君を斬らなければいけない。」 虚ろな目のまま、閑丸は、彼の体より遥かに巨大な刀を振り上げる。 「いやあぁっ!!」 悲鳴を上げたリムルルは、次の刹那目の前に驚愕する閑丸の顔を見ていた。 今しがた見た、虚ろな瞳の殺人鬼ではない。正気の瞳を持った少年がそこにいる。 「あの・・・・・・。」 驚愕から覚めたらしい閑丸が、彼女におずおずと手を伸ばす。 腰を下ろしたまま、また後ずさったリムルルだが、目の前の閑丸に危険はないことを徐々に感じ取り、気持ちを落ち着かせていった。 手を引っ込めた閑丸が、そっと話しかける。 「えっと・・・・・・大丈夫? リムルルさん。」 まだリムルルの息は完全に静まらず、答えることはできなかった。 「あの、ごめん。"鬼"って聞いたものだから、つい。」 閑丸は居住まいを正した。 「怖がらせちゃったんだね。ごめんなさい。」 彼は、リムルルに頭を下げる。 「ううん、いいよ。私の方こそごめんね。大声出しちゃって。」 吊られたように居住まいを正し、笑ってみせるリムルル。 閑丸の表情にも、安堵が戻ったようだった。 それを見ながらもリムルルは、今しがた自分が見た幻視を思い起こす。 あれは、カムイ・タラプ(霊夢)? 今しがた見たものは、カムイのお告げというべき夢だったのか。 いったいどうして? どういうこと? 少なくとも、今目の前に見ている緋雨閑丸という少年は、大人しげで危険な所など全くない。 あれは・・・・・・いったい何? カムイの見せた夢なのだったら・・・・・・もしかすると、未来? どれほど考えてもリムルルは、どんな結論にもたどり着けなかった。 雨が、万物を濡らす音だけが響いていた。 |