花時の雨〜リムルル〜(2)

伸ばした手がべちゃりと、血溜りに滑る。

闇を分け隔て、か細い三日月に似た刃の光が走る。

闇を切り裂かんばかりの絶叫。黒を染め上げんばかりの血飛沫。

そこかしこに横たわっている、二度と動くことのない塊。

一瞥もくれずに立ちはだかる、

大きな大きな影。

刃の形に影の口が裂けて、無慈悲な笑いが満ち満ちる。



あれは、鬼だ。



閑丸は心に呟く。

このおぞましい光景の外、彼に記憶と呼べるものはなかった。

それゆえになのか、鬼の殺戮は忌避すべきものであるはずなのに、

ただひとつの記憶として閑丸を安堵させるものともなっていたのだった。



小雨がぱらぱらと散っている。

(あれ……?)

瞬いて、緋雨閑丸は辺りを見回した。

山道の両側に、雨の中立ち竦む木々の姿だけがその目に飛び込んでくる。

(……あの人たちは、どこへ行ったんだろう)

彼はぼんやりと思考する。

ほんの今しがたまで、

彼は将軍家の剣術指南役である剣士、柳生十兵衛と語らっていたはずだったのに。

その傍らに、もうひとりが立っていて。

そこまで思いを巡らせた時、差し掛けている霧雨と名付けた青い傘の下から突然目に入った人の姿に、

閑丸は注意を奪われる。

山道の脇の小岩にちょこんと腰をかけ、その少女も閑丸を見ていた。

「君は、誰?」

さらりとした髪に覆われた頭の上を青い蝶結びの布で飾った、小柄で大人しげで、

しかし人懐こい光を目に宿しているその少女は、

そう問いかけた閑丸を見返し、にっこりと笑った。

「鬼を、探してるんでしょ?」

初めて会った少女の思わぬ言葉に、閑丸は瞬く。

「君は……鬼を知っているの?」

人懐こい笑顔のままで少女は首を振る。

「ううん。でも、今閑丸くんをつけ回してるウエンカムイを倒す方法は知ってるよ」

閑丸は、再び瞬いた。

「閑丸くんが立ち向かわなくちゃ、そいつはいつまでも閑丸くんを追いかけ回すだろうから」

「いい加減……しつこいとは思ってたんだ」

沈んだ声で呟いた閑丸は、目の前の少女を見る。

その視線に籠もっていた、少し暗く訝しげな色が影をひそめた。

「でも、どうして君はあいつのことを知ってるんだ?」

「あたしね」

少女は言った。

「ウエンカムイのことは詳しいんだよ。光の巫女だったから」

「……え?」

「だから、あたしと一緒に来ない?」

「何のために?」

小さな岩からぴょこんと降り立った少女は、閑丸の顔をじっと見つめた。

「一緒にウエンカムイを倒すの!」

「君と……いっしょにかい?」

「あとね、リムルルを助けてあげてほしいの」

「……リムルル……さん?」

瞬きの下で、閑丸の脳裏にひとりの少女の姿が甦る。

蝦夷から来たと言い、姉を捜していると言っていた少女の明るい大きな瞳が、瞼の裏に浮かび上がってきた。

「リムルルさんが……どうかしたの?」

「聞いて、閑丸くん」

一歩閑丸に向けて踏み出した少女の目に、真剣な色が増した。

「このままだとね。リムルルは、ウエンカムイに取り込まれてしまうの」

「それって……どういうことなんだい?」

「ウエンカムイは野望のために、リムルルを利用しようとしてるの。あたし、それを止めなきゃいけないの」

「あの、ちょっと待って」

閑丸はそう呼びかけ、少女の訴えを止める。

「うえんかむいっていうのは、あいつのことなんだよね? 伴天連の衣裳を着た、黄色い髪をした男」

「そうだよ。遠い国からやって来た、クンネ・シトゥキのウエンカムイ」

「……そいつを君が止めなくちゃいけないっていうのは……さっき言ってた、”光の巫女”というのと関係があるの?」

「えへ」

少女はにっこりと、人懐こい笑みを浮かべ閑丸を見た。

「それは、もうちょっとないしょ。ね、お願い力を貸して。閑丸くんにならできるから」

少女は突如人差し指を突き出す。

それは宙に踊り、字を形作るように舞った。

「だって閑丸くんは、”鎮めることのできるもの”だもんね」

「え」

少女は目を見開いた閑丸に、親しげな視線を向ける。

その細い指が、なおも中空に字を形作っている。

動きを追っていた閑丸の目が見開かれた。

それは、”閑”の一文字。

閑丸がその背に負う刀、古代に蝦夷(えみし)たちの用いたという蕨手刀に似たつくりの小太刀、

”大祓禍神閑丸”にただ一文字、刻み付けられた文字。

「まさか君は……この刀を知ってるのか?」

少女はただ、にっこりと笑っている。

「知っているのなら、教えてくれ! 僕は一体誰なんだ!」

「わからない」

笑顔のままで少女は言った。

「でも、代わりにあたしは知ってるの。閑丸くんが斬らなくちゃいけないのは」

初めて、彼女の顔から無邪気な笑みが消えた。

「閑丸くん自身の宿命」

真摯な瞳を向けてきた少女の言葉は、これまで、閑丸が思ってもみなかったものだった。

「……僕自身の宿命?」

鸚鵡返しに呟くと、少女はゆっくりと頷く。

「わからないよ……それは一体、どういうこと?」

「知りたかったら、閑丸くん。お願い、あたしといっしょに来て」

閑丸は、こちらに歩み寄り真剣に彼の目を覗き込んでくる少女の目を見返した。

僕自身の宿命。

ご住職が亡くなる前に言っていた。

僕の宿命に向かって歩めと。

誰だか知らないけどこの女の子はたった今、

僕は僕自身の宿命を斬らなくちゃいけないと言った。

わからない。

宿命だなんて言われても、そもそも僕は自分が誰なのか知らないんだ。

僕は、自分が誰なのかを知りたい。

いや、知らなくちゃいけない。

それだけはわかってる。

それを知っているのはおそらく鬼。

壬無月斬紅郎という剣士。

そこに辿り着くまでに、邪魔する者がいるなら。

斬るしかない。これまでそうしてきたように。


あいつも、僕の邪魔をする者……。

伴天連の格好をした男。



「うん……わかったよ」

閑丸はそう小さく呟いた。

少女は、花のように笑った。

「シクルゥ!」

突如振り向いた少女が呼ばわると、

森の中からかろやかな足音が聞こえ、やがて獣が駆け寄って来た。

大きな狼。

目にした閑丸の足が反射的に動く。

「シクルゥ、ウエンカムイがいるところに連れて行って!」

少女は狼にそう呼びかけたが、

突如狼は姿勢を低め、閑丸を見据えて唸った。

明らかに敵意を持った行動だった。

「シクルゥ?」

少女が訝しげな声を狼に向けて発する。

足を引いて身構え、閑丸は霧雨と名付けた傘を畳み、その柄を握り締める。

「僕は、嫌われてるんだね」

我知らず、声が低くなった。

狼は敵意を露わに閑丸を見据え、地を這うような唸り声を響かせている。

「シクルゥ」

少し強い調子で、少女が言った。

ぱっちりとした可愛らしい目に厳しい色が浮かんでいる。

「ウエンカムイの力は、今どんどん大きくなっているんだよ。それはわかるでしょ?」

少女は腰を落とし、シクルゥの顔面の前に真剣な表情を突き出した。

「リムルルは、あたしと姉様の後を受け継ぐ光の巫女。ウエンカムイに対抗できる力を持ってる。でも、まだ充分じゃない」

狼が小さく唸る。

「ウエンカムイは、リムルルが巫女として目覚めるまで待ってくれないんだよ? 

今は閑丸くんの力が必要なの。だから、ね? お願い」

狼は、じっと少女を見ていたが。

やがて、折れたようにかすかに首を傾げる。

「わかってくれた?」

そう狼に語りかけ、少女はこれまでと同じ無邪気な笑みを浮かべて背後の閑丸を振り向く。

「じゃあ、行こう。閑丸くん」

「あの」

閑丸の意を決したような表情に、少女は瞬いた。

「なぁに?」

閑丸はしばし躊躇している様子だったが、言葉を切り出す。

「君は、一体何者で、名前は何ていうの?」

「あ」

少女はぱちくりと瞬き、頭に手を持っていきぺろっと舌を出した。

「そっか、まだ言ってなかったね。あたしはノンノ。”先代の光の巫女”だよ。

今はそれだけ、教えといてあげる」

今度は閑丸が瞬いて、茶目っ気たっぷりに笑う少女を見る番になった。

「さ、閑丸くん、早く行こう!」

小雨の中、閑丸はノンノという少女に手を引かれ、うながされるまま狼に跨り、

そうして新たな運命への一歩を踏み出した。




「ここに、”鬼”の娘がいるってかぁ」

ずっしりと足を踏み締め、花諷院骸羅はひとりごちる。

山間に紛れ、そのまま一体となって消え入ろうとしているが如くにひっそりとした、侘しい村だった。

覇王丸の語りによれば、”鬼”と化した壬無月斬紅郎がその殺戮を一時止めた村がここであり、

事実上斬紅郎の刃を止めたのは、ひとりの赤子であったという。



その昔、殺戮を続ける鬼、壬無月斬紅郎の前に進み出たのは赤子を抱いたひとりの若い女。

女は斬紅郎に何事かを語りかけようとしていたらしいと語る者もあったが、定かではない。

女はそのまま斬り捨てられたが、生き残った赤子は鬼の手にかかることはなかった。

鬼はそのまま村を立ち去り、しばらくの間世から姿を消し、赤子はその後、この村で成長した。

「鬼の子供ってことで嫌がらせをする手合いもいたようだがな」

道中の、覇王丸のその言葉を思い出し、

「けっ」

骸羅の太い眉がしかめられる。

「何処にでもいやがるんだなぁ、そういう尻の穴の小せえ連中はよ!」

その場で骸羅は、すぐさまそう吐き捨てた。

「赤子を憐れと思って引き取った村人は、この子が鬼から皆を助けてくれたのだからと俺に言ったぜ」

覇王丸の言葉が続けて思い出される。

「やい、覇王丸! 娘っ子に鬼の討伐を頼まれたのはそもそもてめぇじゃねえのかよ。

なんで幻の字との果し合いの方を先にしやがんだ!」

そう怒鳴った骸羅に対し、覇王丸はにやりと口の端を吊り上げた。

「なに、じきに行くさ」

覇王丸は村の入り口まで骸羅を案内し、鬼の娘が住む家屋を示すと背を向けてそのまま去って行ったのだった。

牙神幻十郎との果し合いの場へと。

かつて、和狆が剣の弟子としていたひとりであったが破門された、覇王丸の兄弟子に当たる男。

(生きてることが罰当たりそのもんみてえな野郎だが、なぁ)

その一方で骸羅はこうも思う。

(けどどうもヤツも覇王丸も、どっか似たモン同士って気がするぜ)

骸羅は去っていく覇王丸の背中目掛けて怒鳴りつけた。

「生きてやがれよ、コラァ!」



そうして覇王丸と別れ、ひとり村へ足を踏み入れ大股に歩む骸羅は、

「ん!?」

大げさに目を見開く事態に遭遇した。

壬無月斬紅郎の娘、詩織が暮らすと教わった家の前に客人……明らかに村の者ではありえない、

二本差しの侍と白い布で身体を覆った背の高い人物が立っていた。

白い布の下から、金色の髪と真っ白な肌が僅かに覗く。

「おい、異国のモンか!?」

骸羅の大声に、二本差しの侍が目を向けた。

片目を眼帯で覆った、壮年の侍である。

「二本差しと異国モノたぁ、どういう取り合わせだよ!?」

「これ、そこの者。少し口を慎まんか」

隻眼の侍が冷静に骸羅に言い放った。

「慎むも何もなあ、お前ら露骨にあやしすぎじゃねえかよ!」

「騒々しい」

隻眼の侍の隣に立つ長身の人物がぴしゃりと声を放つ。

骸羅は剥き出した眼を数回瞬いた。

「野郎のわりにゃえらく甲高い声してやがんな? まさか、まだ毛も生えてねぇのか?」

「無礼者」

長身の人物は、頭を覆う白い布を取り去った。

「私は女だ」

「……なんだァ!?」

金色のゆるやかに巻かれた髪、青い瞳がきっと骸羅を見据えていた。

骸羅はまたしても瞬きながら、その人物を穴の空きそうなほど見つめていたが。

「異人の女ってぇのは何か? 野郎と同じくれぇでけえのかよ?」

「お前に関わっている暇はない」

眉を顰めた異人の女性は骸羅に冷たく言い放ち、隻眼の侍へと言葉をかける。

「柳生殿、所用を済ませてもらえぬか。鬼の娘はまだ幼少なのだろう。

手間を取らせるのは忍びない」

「うむ」

「おい、お前らちょっと待てえ!」

骸羅が声を張り上げ、異人の女性の表情に険しさが増した。

「鬼の娘と確かに言ったなァ? 何の用があるんだ、引っ立てようってのか!?

親が何をしでかそうが、餓鬼に関係ねえだろうが!!」

「そのとおりだな、小童。子供自身に罪はないが、聞かせてもらわねばならぬ話があるゆえに」

隻眼の侍が言う。

「正義感が強いのは結構だ。私もそのような人間に会った事はある。だが発揮する時と場所を間違えぬことだな」

続けて異人の女性が骸羅に言い放った。

「うるせえ! 鬼の娘にゃ俺も用があんだよっ!」

骸羅は大股に、彼らに向けて踏み出した。





枯華院の鎮守の森にか細く雨が降る。

雨に濡れ立つリムルルは、手にした彼女の武器ハハクルの刃に思いの全てを託し、怖れを必死に殺そうとしていた。

その背後に、護り人のように氷の結晶体として具現化したコンルが浮かんでいる。

自然のために、巫女の使命のために、そして姉様のために。

カムイウタリよ、力を貸して。

コンル、私のラマッ(魂)に力を貸して。

このウエンカムイを倒せる力を!



「輝ける魂の持ち主よ」

美々しい唇が妖しく歪められる。

「我が理想郷の現出のために」

その掌の上で、紅く巨大な宝玉が雷鳴にも似た光をまとい輝く。

「汝、暗転入滅せよ!」

金色の細波のような髪が、宝玉の光に照らし出された面の上で逆立ち波打ち、男の瞳はリムルルに据えられた。


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