花時の雨〜リムルル〜(1)

しとしとと、糸の様に降りしきる雨の中。

霧雨と名付けた蛇の目傘を差しかけた下から、

緋雨閑丸は声の主を見た。

「梅雨時とはいえ、今日もよぅ降りおるわ」

双つの刀を差した、強壮な印象の隻眼の剣士は、編み笠の下から閑丸を目に据え、悠然とした笑みを浮かべる。

剣士の隣には、白い布を全身にまとった者が立っている。

剣士とほぼ同等の上背があり、顔も布に隠れて見えないが

布の下から細い棒状のものが覗いていた。

何かはわからないが武器かもしれない、と閑丸は思う。

「坊主。それはなかなか良いつくりの傘じゃな」

閑丸は、じっと剣士を見ていたが。

「……こんにちは」

小さく呟くように声を発し、傘の下で剣士に頭を下げた。

「柳生殿。この國ではこのような子供も武器を持つのか?」

剣士の隣に立つ、白い布で身を覆った者がそう声を発する。

「この國の童がすべて帯刀しておるわけではないがな」

そう剣士が答えた。

閑丸は瞬く。

剣士の隣に立つ背の高い人物は男性ではないかと漠然と思っていたが、

女性のような柔らかさを持つ、高い……だが凛々しい響きの声を発したのが不思議だったのだ。

しかし、その人物が発した言葉に気になるものがひとつ。

「柳生……? あの……柳生って……ひょっとして、将軍家剣術指南役……の……?」

おずおずと閑丸は尋ねる。

「柳生十兵衛……どの、ですか?」

「いかにも」

隻眼の剣士が微かな笑みを浮かべ、閑丸に答える。

「あの……柳生どのはご存知ではないですか」

告げつつ閑丸は、常になく躊躇いを覚えていたが。

「僕、鬼を探してるんです」

「鬼。ほほぅ」

「昔、たくさんの村を全滅させたという鬼が、また現れたと」

「今はサムライのみを狙っている……という凄腕の剣士のことか?」

十兵衛の隣に立つ背の高い人物が、澄んだ凛々しい声で言った。

閑丸は瞬き、十兵衛も隣の連れを少し不思議そうに見やる。

「そなたも知っておるのか」

「私に話を伝えた者は、そのような手合いを野放しにしておくこの國は程度が知れていると言っていた」

「耳が痛いのぉ」

十兵衛は鷹揚に、しかし苦い薄笑いを浮かべて首を振ったが再び閑丸を鋭く見据える。

「坊主は何ゆえ鬼を求めておる?」

「……聞きたいことがあるんです。僕が何者なのか」

「うむ?」

「僕は」

閑丸は刹那、声を詰まらせる。

胸に圧迫感を覚える。

この人たちに言ってしまってもいいのか?

閑丸は心の奥底で、そう激しく懸念していた。

手に残る感触が、その理由のひとつ。

だが、彼は懸念を押しのけた。

「鬼のこと以外、何も覚えていない。自分が誰なのかわからない」

閑丸は目に力を込め、柳生十兵衛と背の高い人物を見据える。

「だから知りたいんです」

「……むぅ」

十兵衛は、閑丸を見つめつつ顎に指を置いた。

「自分が誰なのかわからない……では少年、君は自分の名も知らないというのか」

背の高い人物が尋ねる。

俯いた閑丸は、

背に負った刀を抜き取った。

「この刀」

二人に、血の色の大きな水晶がはめ込まれた柄を向ける。

「大祓禍神閑丸、というそうです」

閑丸の突然の行動に、背の高い人物の方が僅かに身動ぎしたが、

十兵衛は目を細め、閑丸が刀の柄を突き出したのを見届けて腕組みをする。

「僕は昔、あるお寺のご住職に拾われ育てられました。ご住職は、もう亡くなりましたがその前に、僕にこれを授けてくれました」

二人に向かい突き出された血の色の水晶が、か細い雨に濡れ露の粒をまとう。

「これに、閑という字が刻まれています。刀鍛冶の銘すらないんです。ご住職は、僕のことを閑丸と呼んでいました。

この刀と同じ名前です」

「シズマル、か」

背の高い人物が澄んだ声で繰り返した。

「身元がわからぬというなら、君は家名を持たないことになるな」

「家名……一族の名前ですね。それは、確かにわかりません。でもご住職は」

閑丸の目に影が差す。

「……僕に、仮初めの家名をくれました。緋雨、と」

「ひさめ、のう?」

問い掛けるような十兵衛の声に、

「緋色の雨、と書きます」

答える閑丸の、声にも暗い調子が混ざる。




「……宿命かもしれんのう」

在りし日の恩ある僧侶は、そう呟いていた。

庭先で、言いつけられた用働きと食事のほかの僅かな時を惜しんで、たった一人棒きれを手に剣の研鑚に励む、

そんな幼い閑丸を哀れむように、微かに怕れるように見つめながら。

時が流れ、僧侶は病に付しその床で、閑丸に刀を……大祓禍神閑丸を引き出して与え、

これまで胸のうちに閉ざしてきた事を語って逝った。

初めて閑丸と出会った時の事を。

この刀をしっかりと抱えた幼子は、

うわ言のように呟き続けていた。

おおはらい、まが、かみ、しず、まる、と。

その子は全身を緋色に染めていた。

赤い雨に打たれたように、真っ赤な姿で、

刀を抱き締め、呟き続けていた。



……鬼を求めるのがお前の悲願なら、

その宿命に向かって歩め。

僧侶は閑丸にそう言い残した。

閑丸は僧侶を手厚く弔い、刀と傘ひとつを携え、寺を後に鬼を探す旅に出た。

鬼は、かつては誰彼構わず殺戮を重ねていたというが、

今鬼が現れるとき、骸を晒すのは侍のみであるという。

鬼を尋ね歩く閑丸が得たのは、鬼に関するそうした伝聞と、鬼に関係する者であるという決めつけ、

そう決めつけた、鬼を仇と狙うもの、また功名心にはやるものたちからの刃の追撃だった。

閑丸は、霧雨と名付けた特殊なつくりの傘を振り回し、

かわしきれぬ時は大祓禍神閑丸を抜き取った。

寺にあった間、記憶にある鬼の斬撃を、その太刀筋を甦らせるべく重ねた精進は冴えを見せ、

傘で血塗れた姿を隠した閑丸が立ち去った後には、血の雨が降った名残と骸のみが残されたのだった。

今も、手に積み重なったその感触。

肉を斬り、血の飛沫を浴びるその感触が常に己に纏いついているのを感じる。




「赤い雨、ということか? 子供にそのような得体の知れぬ名を」

機嫌を損ねたかのような澄んだ声が、背の高い人物から発せられた。

「坊主……鬼のことしか覚えておらぬ、か。その鬼の名は」

十兵衛の隻眼が、鋭く閑丸を捕らえる。

「壬無月斬紅郎で間違いないのかのぅ?」

閑丸は目を大きく見開く。



「十兵衛殿。それが鬼と呼ばれる剣士の名か?

幕府は鬼の正体を把握しているのか」

背の高い人物の詰問の声には、僅かに非難めいた調子が加わった。

「把握しておる。斬紅郎に斬られた者の中には、幕府の要職にある者の身内も含まれておるでな」

そう十兵衛は答える。傍目にも苦々しげな表情で。

閑丸は二人のやり取りを耳にはしていたが、

既に把握できる状態ではなくなっていた。

鬼の名。

幼い頃から、自分の唯一の記憶の中に居座り続け、

赤い霧を無限に発生させている鬼の名。

それが、壬無月斬紅郎。





「それが鬼の名前だってんだな、和尚」

枯華院の住職の居室で、花諷院骸羅は、そう枯華院の住職である和狆に問い直す。

以前の彼なら完全に怒鳴り声での問いかけであったろうが、

今は凄みこそあるものの、遥かに抑えた声である。

「壬無月斬紅郎、でいいんだな?」

「お前が兵法者に興味を持つときが来るとはの」

和狆は煙管を吹かせつつ、穏やかに笑む。

「壬無月斬紅郎は、おそらくこの世で唯一の"無限一刀流"の使い手じゃ。」

「唯一?」

骸羅は二、三度瞬いた。

「一人しかいねぇ流派に、何の意味があるってんだ?」

「ワシも名といくつかの逸話を聞いたのみで、実際にその剣技を眼にしたことはないがの。

聞いた話では、無限一刀流はあまりにも変わった流派であるゆえ受け継ぐ者が極端に少ない、ということじゃ」

「どう変わってんだよ」

「無限一刀流が使用する太刀の長さはおよそ六尺(約180cm)。と言えばわかるかの?」

「でけぇなオイ!」

「お前ほどの身体なら扱えなくもないかもしれんが、まず並の体格の者には扱えん。

故に、世に広まる事はなかったんじゃ」

骸羅は唇を結ぶ。

鬼の姿と、その手の槍の如き長さの太刀を思い出す。

(そりゃー、あんなもん振り回せる野郎ばっかならこの國はえれぇことになるやな)

その時、障子ががらりと開いた。

「ついでに言っとくとな」

男の声が発せられる。

「その無限一刀流、開祖は”鬼”だって言い伝えられてるらしいぜ?」




骸羅は目を丸くして瞬く。

「覇王丸!」

「よう。相変わらず雷みてぇな声だな」

そう骸羅に笑いかける、肩に酒瓶と刀を負ったザンバラ髪を結び上げた男に、

和狆はのんびりと声をかけた。

「また突然尋ねてきおったのぅ」

「久しぶりに来てみりゃ、二人そろって随分と面白そうな話をしてるじゃねえか」

そう言って、覇王丸は畳に腰を降ろす。

「世間を騒がせてる鬼についてご教授かい?」

「おう。俺が和尚に話してくれるよう頼んだんだ。

ところで覇王丸、今ヌシ、ヘンなこと言ったな? 無限一刀流の開祖が”鬼”だァ? 何の御伽噺だよ?」

「御伽噺じゃねえさ」

覇王丸はそう言うと頬を掻く。

「おいおい!」

骸羅は、覇王丸に向き直った。

「虎皮のフンドシ締めて、角と牙が生えてる、真っ赤っ赤なあの鬼が、人間に剣術指南をしたってェのかよ? 

んな馬鹿げた話があるかぁ?」

「確かにそれなら御伽噺だろうけどな」

覇王丸はにっと笑みを浮かべる。

和狆が声をかけてきた。

「骸羅。鬼というのはその地獄の獄卒のことではない。

おそらくは"隠(おん)"・・・・・・"隠れたるモノ"によって開かれたのであろうと言われておるのじゃ」

「なんだそりゃ。」

今度は和狆に顔を向け、骸羅は再び、怪訝な顔で瞬きを繰り返した。

彼の耳に、覇王丸の言葉が届く。

「隠、すなわち顕れざるもの。現世に姿を現さず、夢路の境にその身を置くものが伝えた故にその剣技、夢幻にして無双。

幻の如くに捕らえること叶わず、世に比べうるものなし……ってな」

目を白黒させていた骸羅が歯を剥いた。

「今度は謡曲(うたい)か!? 結局ワケがわからんじゃねえかよ!」

骸羅の抗議する様子に、覇王丸が笑い声をあげる。

「ま、ようするに来歴はよくわからねぇ流派だってことでいいんじゃねえか?」

「もう流派の話はその辺でいいや! ジジイ、その鬼の剣豪についてもっと役に立ちそうな話はねぇのかよ?」

「お前さんの役に立つかどうかはわからんが、ひとつ話してやってもいいぜ。」

骸羅は覇王丸を振り向く。不満げに睨みつけている。

「謡曲ならもう勘弁だぞ!」

「鬼を斬ってくれ、って娘に出会った」

骸羅が瞬き、和狆が覇王丸を注視する。

「……なんだ?」

「その娘は、壬無月斬紅郎の実の娘だと名乗った」

骸羅の眉が吊り上がる。

「娘が言うには、鬼と化した父親は母と兄の仇でもあるそうだ」

骸羅の形相に、ますます怒りの色が強まった。

「その詩織って娘は、赤ん坊の時母親と兄を殺されて、それ以後父親に会った事は一度もねぇと言ってたぜ」

覇王丸は、畳に置いた酒瓶を取り上げ一口流し込んだ。





狼の唸りが低く響く。

不満げな響きがある。

「もぉ〜、怒らないでよシクルゥ。

姉様は、ちゃんと南のラメトクさんが助けてくれたんだから、いいでしょ?」

その背にまたがり、狼のふさふさした毛を掴んでいる青い蝦夷の衣裳に身をつつんだ少女は

ぷぅと頬を膨らませた。

疾走する狼の背で、少女の髪も頭に結ばれた青い飾り布もはためき、胸元で白い鳩笛が揺れている。

「あの子の力が必要なんだから! だから急いで、シクルゥ!」

ぱらぱらと、小雨がちらつきだした。

山の中、少女……ノンノと名乗る少女を背に乗せ、アイヌの巫女に仕える狼シクルゥは駈け続ける。


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