雨礫〜花諷院骸羅〜(3)

骸羅は立ちどまった。

降りしきる雨の中で彼が目の前に見たのは、果し合いらしき場面だった。

しかしそれは、

勝負が始まる前から勝敗の決している果し合いであった。

同じく刀を手にしていても、

ひとりはもうひとりの発する気の前に、

完全に呑まれきっていた。



ひとりの侍が刀を構えている。

何とか押し殺してはいるのだろうが、

怯えはどうしようもなく彼の面(おもて)から、身体から滲み出し雨に溶け出している。

彼が相対するものの、

全身から発される異様な気。

持て余すほどの巨体である、骸羅をも上回る巨躯。

獅子の鬣を思わせる蓬髪。

厳めしく結ばれた、あらゆる感情の切り捨てられた顔。

これまで目にしたこともない、槍のような長さを持つ鋼の刃が雨の中で濡れ光る。

並外れた巨躯にふさわしい、尋常でない太刀がその手に握り締められている。

その姿は、正に巌であった。

決して人が触れることがかなわぬ威圧感。

それと遭遇すること、

人にとり命の終わり。

その五体は決して超えられぬ巌となって立ち塞がり、すべての希望を打ち砕く。

その手に握られし刀は、逃れることの叶わぬ猛獣の牙。

それが鬼だった。

まさしく、人の範疇から逸脱した、異界のモノだった。



「おおおおっ」

侍が叫び、構えた刀を翻す。

鬼の腕が動く。

雨も、空も、天をも切り裂くと見える一閃が

全てを分断した。



既に全身雨に濡れ切った骸羅の身体に、

新たな水飛沫が散る。

目が合った。

既に生気を失った双つの目と、骸羅は向き合っていた。

鬼と相対していた侍は、

その両目と口とを大きく開いたまま絶命していた。

その身体と触れている地は赤く染まり雨に混じって流れ、

侍の胴体より下がその場にない事を、骸羅は見て取った。



何かが倒れ、水飛沫のあがった音が耳に届く。

気配が動き、骸羅は刹那に目を動かした。

鬼が、彼を見ている。

視界には同時に、前のめりに倒れて赤い色と臓物を雨に流している両足が、

侍の分断された下半身が入っていた。



骸羅は動けなかった。

頭の中から、全ての考えが消え失せ、全ての感情が掻き消えた。

ただひとつ、その思いひとつを除いては。


恐怖であった。

圧倒的な恐怖のみに、骸羅の全身は支配されていた。

勝てない。

死ぬ。

あれに向かってこられたら俺は死ぬ。

逃げられない。

それは思考ですらない、精神を拘束し思いの全てを窒息させる、冷厳な事実という強力な鎖だった。


身体は完全に竦みあがり、進むことも退くことも叶わない。

己の力でどうにもならぬものが、

否、触れることすら出来ぬものが確かに存在する事を、

骸羅はその全身で、まさに骨身に沁みるが如くに思い知らされていたのだった。



巌が、動いた。

鬼が歩む。

今や刃のように、肌を突き刺す激しき雨の中を、血に濡れた鬼が進む。

べたりと血を纏った、巨きな刀を手に鬼は歩む。



目を見開き、鬼を凝視していた骸羅は、漸う足を引いていた。

逃げられるものなら、脱兎の如く、全力で駈けていたかも知れない。

雨に打たれた五体ががくがくと震えている。

生まれてはじめての経験であった。



鬼は、

ほんの僅かに骸羅に目を据え、

すぐに反らした。

鬼はそのまま、刃の雨に打たれながらゆっくりと歩み去り、やがて骸羅の視界から消えた。

返り血も、刀の血も、雨に流れていったことだろう。


刃の雨が骸羅を濡らす。

刃の雨が、地に置き去られた上半身のみの侍を濡らす。




身を刺し続ける雨の中、

花諷院骸羅は叫んだ。

声が爆発した。

雨の中に轟いた。

畜生、畜生、畜生、畜生。

そう叫び続け、あとは言葉にもならず

吼え声と化して轟き続けた。

いつまでも、いつまでも。

やがて、骸羅は走り出した。



雨に身を刺されながら、意識したかしないでか、

元きた道をひたすらに驀進していた。

両側にこんもりと盛り上がる木々の緑。

雨の中じっと立ち尽くす木々。

骸羅は叫びながら、木々の中に飛び込んだ。

ひたすらに駈けた。

生い茂る葉を押しのけ、枝に払われ、

身体は木々に鞭打たれて傷を負う。

駈け続ける最中足を踏み外し、

幸いにもまっ逆様に転落する事は免れたが、

山肌に打ち据えられ、身体の傷と痛みはますます増えた。

骸羅はそれすら意に介さない。

すぐさま身を起こし立ち上がる。

受ける傷の痛みよりも痛く、血が体内で燃え上がり、煮え滾っているように感じながら走り続けた。



そうしてどれくらい山を駆け上り続けたか。

はっきりと意識できぬまま、駈け続けていた骸羅の足は突如止められた。

足元で、硬直した手が雨に打たれていた。

またも、恐怖に引き攣り歪んだ死に顔が雨に打たれながら骸羅を見上げている。

男だ。

先ほどの侍と違い、どことなく野卑な印象を受ける顔。

肩と胸が壊れ、ぱっくりと赤い肉が覗いていた。

獣に喰い千切られた痕のように見える。

骸羅は、ふと思った。

しまった。

俺は坊主なのに、あの侍の弔いもせずにきちまった。



骸羅は駈けるのを止めた。

大きな掌を垂直に立てる。

「南無阿弥陀仏」

そう、足元で事切れている男に唱えた。

ふい、と前方に目を向けた骸羅はそこにもまた骸が転がっているのを見た。

足元の男と同じように、

二度と動く事がない男。

「こりゃあ」

骸羅はさすがに不審に思い出した。

その男の下まで行くと、

またしても別の骸が目に入る。

「うげっ」

骸羅は眉を思い切りしかめる。

頭を叩き潰され、頭蓋の残骸と流れ出た中身が雨に打たれた無惨な姿であった。

「こりゃ……獣のしわざじゃねえよな?」

そう呟き、ひょっとしてホトケさんはまだまだいるんじゃねぇのかと思い、

骸羅の心には、同時に次の疑問が導かれる。

(オイ。いってぇ何があったつぅんだよ?)

刹那、骸羅の目は落ち着きなく泳いだが、

その目をふたつの骸へ据えた彼は、再び

「南無阿弥陀仏」

合掌し、そう唱えた。



ぽっかりと、木々から抜け出し

多少岩の突き出した足場の不安定な山肌に、

骸羅が思ったように、さらに幾つもの骸が転がっていた。

すべて男で、刀も何本か脇に転がっている。

先ほど、鬼に斬り捨てられ身体の分かれた侍と同じように、

彼らの血は雨に流れ、肉は水に打ち据えられ続けている。

「お前ら」

骸羅は呼びかけていた。

「いってぇ……何に殺られたんだよ?」

答えることの叶わぬ骸たちに対して。

わかっていても、骸羅は呟かずにはいられなかった。

彼はそのまま大股に、雨に濡れた山肌を踏み締め登っていく。

「南無阿弥陀仏」

片手を立て、それを合掌の代わりに骸羅は呟く。

足元に、またひとつの骸。

恐怖に凍りついたまま強張り、半分破壊された顔。

「南無阿弥陀仏」

骸羅はその骸へも唱える。

しとしととか細く降りしきる雨の中、

骸羅は男たちの骸に念仏を送りつつ、昇って行った。

ぽっかりと開いた洞窟の入り口が目に入った。

そこにまたひとつ、仰向けになった骸が転がっていた。

見事な荒い鬚に縁取られた口を半開きにした、

立派な体格の、只ならぬ凶悪さを漂わせる男。

これまで見た骸との違いは、

この男に与えられた致命傷は、明確に刃によるものと見て取れることだった。

「南無阿弥陀仏」

唱えて骸羅は、洞窟に目を向ける。

多分こいつらのねぐらだったんだろうな、と骸羅は見当をつけた。




「おい! 誰かいねぇのかあ?」

骸羅は洞窟の入り口で怒鳴る。

返答はない。

肩を竦め、骸羅は洞窟へと入っていく。

幾つかの生活用品が薄ぼんやりと見え、

その中に蝋燭と火打石を見つけた骸羅は

灯りをともしてさらに奥へと進んだ。

暫く進むと洞窟の中ではあるが、それなりに整えられた場所へと出た。

その頃には骸羅にも、此処を塒(ねぐら)にし、今は外で骸を晒している男たちは

山賊を生業としていたのだろう、と見当がついていた。

酒の瓶や戦利品らしい品物が置かれた中で、

岩壁を背に大きな影が座り込んでいる。

「……いるんじゃねえかよ」

骸羅は蝋燭の明かりをその影へと向けた。



照らし出されたのは赤い面。

突き出した白い牙が、赤く濡れている。

黒く荒い長い髪、首も肩も胸も血を浴びている。

ただその中には、どうやら当人の血も混じっていることが見て取れた。

和狆が、蝦夷の娘たちと共に枯華院に招いた異国人。

骸羅が”天狗”と呼んだ男。

その大きな腕の中に、ひとりの娘がいた。



不思議な光景だった。

なのに、それはあまりにも自然な光景だった。

人ならぬものを思わせる体形の大男が、

腕に女を抱いていた。

抱いているというよりも、そっと包んで守っている、そんな印象があった。

何に喩えるべきなのか。

すぐに闘志を剥き出しにして襲い掛かってくる、油断のならぬ獣が

ただひとり従順になるのは、

守るべき乙女のみ。

骸羅はそのような思いを持った。

なぜか、枯華院に来た蝦夷の娘のうち髪の長い年上の娘と、

それに付き従っていた巨大な狼の姿が目の裏に浮かんだ。




”天狗”と骸羅が呼ぶ異国の戦士タムタムが抱きかかえている娘はその目を閉じ、

黒く艶やかな髪を持ち、

紫黒の布地で体を包み、首飾りを下げていた。

骸羅は瞬く。

―――あたしとおんなじような格好をしていて

幼い声が脳裏に甦った。

―――首からタマサイを下げてるの。紅い珠の首飾り。

そう言いながら、その少女は嬉しそうに笑っていた。

―――髪はあたしより、もう少し長いくらいだよ。




「おい、あんた」

骸羅はそう娘へ呼びかけ、二人の前に膝をつく。

「ひょっとしてあんたが、あの娘の姉さんか?」

「……オマエ、ナゼココニ?」

タムタムが口を開く。

その腕の中で、娘が目を開ける。

その珠の首飾りと似た、紅い目の光。

冷めていながら落ち着いた黒い瞳。

娘はその目を細めた。

「……誰の事を言ってるの」

静かな声が骸羅に向けられる。

娘の醸し出す雰囲気は、凛としていて冷たい。それでいて不思議と安心感が漂っていた。

骸羅は娘に目を据えた。

「鎮守の森にちっけぇ娘っ子がいたんだ。そいつに言付け頼まれたんだよ。

あ〜、しる……汁、なんとか……噛む……蚤……だとか言ってたっけな?」

骸羅は顔をしかめる。彼なりに懸命に思い出そうとしている様子は、見ている二人にも伝わった。

「そいつを、あんたに手伝ってほしいとよ」

「何を言ってるの」

女は冷然と骸羅に言い放ち、その言葉に殴られたかのように彼は肩を竦めたが。

「もしかしてあなたが言っているのは、カムイノミのことかしら」

「ああ、それだ!」

骸羅は我が意を得たりとばかりに、拳を音を立てて打ち合わせた。

「なんかそんなこと言ってたぜ」

娘は冷めた瞳で骸羅を見ている。

「その子は私を名指ししたの。それとも、カムイコタンの巫女へ伝言してと言ったの」

「名指しつぅか……姉さんを見たら伝えろ、つってただけでよ。

そいつが言ってた姉さんってのは髪が短くて、蝦夷の衣装を着てて、

珠の首飾りを下げてるってんだ。つまり、あんたの風体そのまんまなんだよ」

「オ前ノ知ル者カ?」

瞬いていたタムタムはそう言って娘を見下ろしたが、彼女は目を伏せ首を振る。

「覚えはないわ。でもカムイノミと口にしたからには、アイヌメノコであることに間違いはないようね」

娘は、立ち上がろうとする仕草を見せる。

「れら」

タムタムの大きな手を、レラと呼ばれた娘はすげなく振り払う。

「もう動けるわ」

布を身体に巻きつけ立ち上がったレラは、骸羅に再び目を向けた。

「出ていてくれない? 着替えたいの」

骸羅は瞬いていたが、

「あ!? お、おう!」

言葉の意味を理解し立ち上がった。

「おい天狗! おめぇも立てや!」

そう呼びかけて、タムタムの傷だらけの現状を再度認識した骸羅は、

「立てるか。きつけりゃ肩貸すぜ」

そのまま、タムタムの腕の下に自分の腕を差し入れる。

「オマエ」

肩を借りて立ち上がったタムタムが言った。

「変ワッタナ」

骸羅はその言葉に刹那動きを止めるが。

「とにかく、着替えを待って枯華院に戻ろうや。和尚が手当てしてくれるだろうぜ」

タムタムを支えて、歩き出す。

その時彼はふと思い出した。

(あ、しまった。戻ったらジジイがさんざ小言言いやがるかもしれねぇ)

それは辛抱するよりほかないだろう。

収まったら、弔うためにあの侍を探してやらなきゃならねぇと骸羅は考えていた。






彼の見ているもの。それは、

漆黒の夜空に浮かぶ三日月のように、閃く光。

視界に一気に朱の色が散り、

朱一色に染まっていく。

叫ぶ。

逃れようと叫び、

助けを求めて叫ぶ。

朱の向こうで嗤うは、巌のごとき鬼の姿。

それが心の闇を探って手繰り寄せる事のできる、

唯一の記憶。



「今日も降るのぅ」

どこかのんびりと、余裕を交えた声に

物思いを破られて、

緋雨閑丸ははっと目を向ける。


雨礫(2) 花時の雨(1)

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