花時の雨〜リムルル〜(3)


濃く熱い緑の森の中を、ひたすらに歩く。

猿の叫びが、鳥の叫びが聞こえる。

肌を焼く熱い空気。

彼が生まれおちてから以後ずっと、その身を取り巻いているもの。

この先に何があるのか、彼は知っている。

村の外からやって来た、流れ者の職人たちの建てた仮小屋。

彼らはそこに閉じこもり、昼も夜もただ鑿を動かし、神を讃える数々の祭壇を作る。

そして、神を表す仮面……彼と、彼の村の者たちがこれまで目にしたこともない”神の面”をも。


しかし、一体どんな神なのだ。

我らが神とは違う。それだけははっきりしている。

もしかすると悪い神かもしれない。

我らにとり、災禍しか齎さぬ忌むべきモノかもしれない。

彼はためらうことなく、小屋の中に入る。

木屑の香りが鼻を突く。

一心に鑿を動かしていた職人たちのうち、一人だけが顔を向ける。

何も読み取れない表情だ。

彼はその顔を見据えながら尋ねる。

「ソレガ、オ前タチノ神カ?」

彼をじっと見ている職人の背後、仕事を続けるその仲間たちたちの真ん中に、小屋の中央に十字に組まれた丸太が立てられている。

我らの村と同様に、これは世界の中心にそびえる命の樹を表したものだろう。

その命の樹を表した組み木を覆っているものは、狼の毛皮。


これが彼らの神なのだ。

”神の面”の作り手たちの。

そう夢の中で、確信した刹那のことだった。



「あなた、一体何者なの」



若い女の声が耳に飛び込んできた。

タムタムは目を開ける。

ここは故郷ではない、その事実を彼の肌が思い起こし、

たった今聞いた声の主が、三度目にやって来たこの国、日本で出会った紫のナコルルというアイヌの少女であることを理解する。

「確か、レラって呼ばれてたわね」

そして、タムタムは思い出す。風の巫女、レラが再び現世に戻ってきたことも。

「……こんなところまでのこのこ来ていたの」

冷めた声が発せられたのが聞こえる。

「何よ。どういう意味?」

その声を受け、紫のナコルルの声が刺々しくなった。

「天草の凶事の際、ナコルルを真似て刃を振り回していたはねっ返りさんね」

二人の娘の声に、タムタムは立ち上がる。

体の節々に痛みが走ったが、構わず声の方へと向かう。

彼は、ショウジと聞いていた引き戸に大きな手をかけ、引き開ける。

二人の娘が向かい合って立っている。

紫を配した衣装をまとった長髪の娘と、彼女に向き合う黒く短い髪を持ち紫黒の衣装をまとった娘の背が目に入った。

その姿を目に留めた紫のナコルルが眉をひそめた。

「怪我人は大人しく寝てなさいよ!」

レラの紅い目が彼を振り向いた。そしてゆっくりと、目の前に立つ紫のナコルルに向き直る。

「さっさと帰りなさい。お遊びでウエンカムイとの戦いに首を突っ込んでいると、そのうち大怪我だけじゃすまなくなるわよ。

……わかるでしょう?」

「はん!」

紫のナコルルはその言葉に、憎憎しげながらも挑発的な笑みを向けた。

「部外者がしたり顔でお説教しないでよ。私はシカンナカムイ刀舞術を会得した剣士なんだから。

それより、はぐらかさないで質問に答えなさいよ。あんた一体どこの誰なの?

ナコルルとリムルルに、何か関係あるっていうの?」

「説明の必要はないわ。したところであなたにはわからない」

冷めた言葉に、紫のナコルルが眉を吊り上げる。

「バカにしてくれるじゃない? 何様のつもりよ?」

「ヨセ、フタリトモ!」

「怪我人は引っ込んでなさいって言ったでしょ!」

タムタムに顔を向け、紫のナコルルは鋭く声を投げつける。

レラは冷めた赤い瞳で、そんな彼女を眺めている。

「りむるるハ、ドウシタ?」

この場に少女がいないことを見て取り、タムタムはそう尋ねた。

「さぁ。この女と話すのに邪魔だから、向こうへ行ってなさいって言ったの。寺のどこかにいるでしょ」

すると、レラはリムルルに会えなかったのか。じっくりと言葉を交わす事はできていないのか?

そうタムタムは思ったが、次の刹那全身が粟立つ。

突如周囲の気が一変した。ただ一色、闇黒の気に塗り潰される。

決して忘れることのできない邪気。

刹那に異変を察知したのは、アイヌの戦士たる二人の娘も同様だった。

紫のナコルルとレラの瞳はそれぞれ、戦士のそれへと豹変した。

「黒イ神……!」

タムタムは声を絞り出す。





リムルルは、手持ち無沙汰に勢いの弱まった雨を堂宇の回廊から眺めるほかなかった。

先ほどまで彼女は、枯華院の堂宇と裏の鎮守の森でシクルゥを探していたが、それは徒労に終わった。

夕べ飛び出していったシクルゥは、朝早く南国の勇者タムタムと共に一人の女性を連れて帰って来た。ようだった。

なのに今はどこにも見当たらない。

リムルルは、南国の勇者と寺に来たその女(ひと)がどんな人かを見ることもできないうちに、

もう一人のサポ・紫のナコルルによって追いやられた。

「あんたはあの大男にでも和尚さんにでも、寺の中を案内してもらってなさい」

一切の反論を許さない声で、そう言い放った紫のナコルルの眼はきつい色が満ちていた。

リムルルを加えたくはないようだった。

(そういえば、このお寺の大きいオンカミクルも、タムタムさんと一緒に戻って来たんだった)

雨にずぶ濡れになっていた彼は、飛び出す前に比べてどことはなく神妙な様子に見えたことをリムルルは思い出す。

(戻ろうかな……どんな話をしてるのか気になるし。クンネ・ラマッさんに見つかったら怒られそうだけど、

なんとか見つからないようにすれば)

踵を返そうとしたリムルルの脳裏に、突如微かに聞こえた声。

(リムルル)

常に共にあった、忘れるはずもない親しい人の声。

リムルルは大きく目を見張った。

「姉さま!」

思わず振り向いた彼女の目に映ったのは、雨に煙る鎮守の森。

森を透かして浮かんでいる、今にも掻き消えそうに儚い、美しく長い黒髪を持った女性の姿。

(リムルル……)

先ほどより弱々しく、透けた女性は……ナコルルの影は呟き、溶け入るように森へと消えていく。

「待って、姉さま!」

姉の影に向かって叫び、リムルルは小雨降りしきる鎮守の森へ向かって堂宇を飛び出した。




その時彼女は、ただ姉を追うことしか考えなかった。

なぜその場に姉が影のような姿で現れたのかなどと、考える余裕はなかった。

「姉さま、姉さまどこなの!?」

既に雨に濡れた彼女は、必死の思いで辺りを見回す。

(リム、ルル……)

先ほどよりさらに弱まった姉の声が、また届いた。

声が聞こえた方に目を向け、木立に透けた哀しげな面持ちの姉の影を見る。

「姉さま! どうしたの? 何があったの? いったいどうして、そんな姿に……」

半分涙声になりながら呼びかけたリムルルに、ナコルルの影は微かな声で告げた。

(来ては、だめ……)

「えっ?」

リムルルは驚いて姉を凝視する。

透明な姿のナコルルの影の、その面から哀しげな表情は消え、凛としてリムルルに告げた。

(来てはいけません!すぐ戻りなさい!あなたまでウエンカムイの罠にはまっては)

罠、という言葉にリムルルの目が見開かれた。

突如、強烈な光が周囲に満ち満ちる。

リムルルは思わず腕で目をかばった。

姉の影は消え、

稲光にも似た光の中から現れたのは、伴天連の姿の黄金の髪を持つ男。

その手に紅と黄金の光に彩られた大きな宝玉を持ち、冷たい美貌に笑みを浮かべている。

「汝が今ひとりの光の巫女か」

彩られた唇が動く。

その声は幽世から響いてくるかのよう。

ひっ、とリムルルの喉の奥で声が引きつったが彼女は何とか恐れを押さえ込んだ。その場から飛び退き、

「コンル!」

彼女と共にある、氷の精霊の名を叫ぶ。

氷の結晶が宙に煌めき、精霊は六角形の立方体の大きな氷として具現化し、青く光を放った。

リムルルは、腰に取り付けられた鞘から彼女の武器であるメノコマキリ、ハハクルという名を持つそれを抜き出し目の前に構える。

枯華院の鎮守の森に、雨はか細く降り続ける。

雨に濡れ立つリムルルは、手にしたハハクルの刃に思いの全てを託し、怖れを必死に殺し、初めて魔性のものと対峙しようとしていた。

その背後に護り人のように、氷の結晶体となったコンルを従えて。

自然のために、巫女の使命のために、そして姉様のために。

カムイウタリよ、力を貸して。

コンル、私のラマッ(魂)に力を貸して。このウエンカムイを倒せる力を!




「輝ける魂の持ち主よ」

美々しい唇が妖しく歪められる。

「我が理想郷の現出のために」

その掌の上で、紅く巨大な宝玉が雷鳴にも似た光をまとい輝く。

「汝、暗転入滅せよ!」

金色の細波のような髪が、宝玉の光に照らし出された面の上で逆立ち波打ち、男の瞳はリムルルに据えられた。

宝玉の内部で生成されたかのような光が強さを増し、一直線にリムルルに向かって放たれる。

「鏡よ!」

リムルルが一声叫んだ。

その叫びに反応し、氷の精霊は動き、刹那にリムルルの前に飛び出す。

と、見る間に精霊の姿はなく、氷で形作られた鏡が盾のようにリムルルの前に出現していた。

宝玉から放たれた稲妻を、氷の鏡が反射し吸収する。

「ふぅむ」

面白げに、かつ満足げに伴天連の姿の男……天草四郎時貞と行動を共にする異国の魔神、ラクシャーサは含み笑いを見せた。

これはどうだと言わんばかりに笑み、両の掌を構えると、間に浮かぶ宝珠から今度は闇が発生する。

闇黒の靄は発生源である宝珠をみるみる包み込み、細かな稲光がその周囲を走る。

「はあっ!」

ラクシャーサは、闇黒の宝珠と化したそれをリムルル目掛けて投げ放った。

神の鏡(カムイシトゥキ)では防げない!

刹那に悟ったリムルルは、次の動きをコンルに向かって念じ、足に力を込めて跳躍する。

コンルの青みと硬さとが増し、リムルルの足場となるべく空中に氷の岩が出現した。

「やっ」

一声発し、リムルルはコンルが作り出した氷の岩場・・・・・・コンル・シラルに飛び乗る。

刹那の間であったが、心を落ち着かせ、リムルルは彼女目掛けて軌道を変え飛来する宝珠を見定め、コンル・シラルから飛び退く。

稲妻は背後の木に激突し、火柱が上がる。

めりめりと木の裂ける音、焦げ臭い匂いが雨の中に漂う。

ラクシャーサの手元には、放電を解いた宝珠がいつの間にか舞い戻っていた。

「ほほぉ」

楽しげに、邪悪な笑みを浮かべ、宝珠を掌の上に浮かべたラクシャーサは片手で印を結び、

口の中で何事か唱え出す。

着地したリムルルはその肌に、じわじわと包囲され締め付けられるような、異様な空気を感じ取った。

(危ない!)

ラクシャーサの声が、まるで木魂の如く周囲を包みこむ。

逃げなきゃ、とリムルルは思ったが体が痺れ、地に縛り付けられたように言う事を聞かない。

リムルルの目に、何事かを唱え続けるラクシャーサの掌の宝珠の変化が映った。

七色の鮮やかで美々しい光が煌めき、次第に広がり、彼女を飲み込もうとしている!

「う……」

喉の奥から湧きあがろうとした悲鳴も、口を衝いて出る事はできない。

「リムルル!」

背後から、女性の鋭い叫びが彼女を呼んだ。

(姉さまっ)

心に叫ぶ。


ただ、その呼び声は双つの声が重なり合ったものだった。

ふたりの”サポ”が、同時に彼女を呼んだのだ。





ラクシャーサが一声高く叫び、その顔に狂喜の嗤いが満ちた。

空間がぐにゃりと歪み、渦を巻いて収縮し、リムルルの体が宙に浮かび上がる。

「きゃあああああっ!」

肉体を地に縛り付けた鈍い痺れから解放され、悲鳴が放たれた。

凄まじい力に引きずられ、流されていく彼女はその力が突如自身を突き放したのを感じる。

一瞬の浮遊感。次の刹那に全身を覆い尽くす怖気。

(落ちる!)

直感した刹那に叫んだ。

「コンル!」

氷の生成される微かな旋律が耳に届く。

どうなったのかわからないけれど、ついてきてくれたんだ。

ほっとする間もなく、リムルルの体は落下を始める。



「わっ!」

誰かの声がした。

え、もしかして人の上に落ちちゃったの?

思った刹那にリムルルは、コンルが作りだしたシンタ(揺り籠)に受け止められた。

そして目の前に、驚きで目を丸くしている少年の姿を見た。

「……閑丸くん?」

紅い宝玉のついた刀を負い、大きな番傘を持った少年は瞬く。

「リムルル……さん?」

気を取り直したらしい少年、緋雨閑丸は幾度か瞬きつつリムルルを見ている。

「えっと……どうしたの、こんなとこで」

「うぅんっと……どういったらいいのかな」

何から言えばいいのかをリムルルは迷う。頭の中がうまくまとまらない。

すると閑丸の目に、真摯な色が増した。

「もしかして、あいつから逃げてきたのか?」

「あいつ?」

「ノンノが言ってた。あいつは異国から来た魔物だって」

「ノンノ?」

「うん、僕をこの村に」

言いながら閑丸は振り向き、

「あれ……?」

困惑した声を出す。

「ノンノ! どこに行ったんだ?」

そう呼ばわり、一歩踏み出し周囲を見渡した。

その時リムルルは、ようやく周囲の様子に目を向ける。

そこは村の入り口だった。

質素な家々が建ち並び、向こうには鬱蒼とした山が見える。

今、彼女と閑丸のいる場所は、道祖神の石碑が置かれた村の入り口に当たる辻だった。

辻の前方、反対側の方向は、やはり鬱蒼とした小さな森へと続いている。

空は厚く重い黒雲に覆い尽くされ、今はまだ日暮れではないはずだが周囲は薄暗く、なんとも陰鬱な空気が漂っていた。

「ついさっきまで、狼といっしょにいたんだけど……」

閑丸はあたりを見つつ、困惑気味にそう口にした。

「狼?」

驚き、リムルルは立ち上がり、コンルは元の結晶体へと形を変化させる。

「しくるぅ、って呼んでたかな。大きな狼で……」

「どっ……どうしてシクルゥがこんなとこに来てるの!?」

リムルルは閑丸に詰め寄った。

「どうしてって……」

少年はなお困惑した表情になる。

「君は、あの狼を知ってるんだ?」

「っていうか……ここ、一体どこなの?」

二人は互いに疑問を口にした。

「あ」

そして、同時にそう声を出す。

閑丸の目に昏い色が宿る。

「ここは、あいつが居座ってる村だよ」

「え」

リムルルは反射的に村へ顔を向ける。

そして気づく。

人の気配が全くない。

誰の姿も、影すらも、見渡す限り存在しない。

「誰も……いないみたいだよ?」

「僕が来た時もそうだった」

少年をリムルルは振り向いた。

「来た時も、って……それじゃあ、閑丸くんは前に来たことがあるの?」

「そうだよ。あいつは鬼じゃないけど、鬼と似たようなことをしてた」

「え……」

その言葉はこの少年、緋雨閑丸と初めて出会った時の、彼の豹変した時のことを思い起こさせ、リムルルの心を刹那萎縮させる。

「鬼と、似たようなことって……」

怕(おそ)れを抑え込み、多少おずおずとではあるがリムルルはなお尋ねた。

「紅い色に染める。辺り一面を」

その沈んだ声に、背筋が粟立つ。

「君は来ない方がいいかもしれない」

言いつつ、閑丸は歩み出そうとする。

「バカにしないでっ!」

そう言い放ったリムルルを、閑丸は振り向いた。

「私だって、やらなきゃいけないことがあるの! それに姉さまが……もしあいつが、姉さまに何かしたのなら」

そこで彼女は言葉を切った。

その身を襲う異様な気配。

閑丸もそれを感じたらしく、表情が一変する。

「血の……匂い……赤黒い暗闇に抱かれて……」

誰かが、二人のすぐ側で、消え入りそうな声でそう呟いた。

「誰っ!?」

「誰だっ!」

二人は叫び、各々の刃に手をかける。

「狂気の牙が、飛び跳ねる……」

リムルルは声の出所を探し足元を見やり、

目を見張る。

影が動いてる!


「ひゃははははははは……!」

狂ったような哄笑と共に、地から飛び出した何かが二人に襲いかかった。


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