花時の雨〜リムルル〜(4)

狂気の風が身を引き裂かんばかりに吹き付けてくる。

己に対する害意のみを、リムルルは肌に感じ取っていた。

「逃げて!」

閑丸が叫び、リムルルも彼と逆の方向に飛び退きそれを避ける。

地から突如二人を目掛け飛びかかって来たのは長い鎖、

その先端には一見したところ風車のように、環の周囲に三つの刃の組み合わされた鎌が取り付けられていた。

疾風のように、刃の風車が空を切り裂き舞い踊る。

道祖神の石碑を刃は掠めていき、猛撃をなんとかかわした二人の幼きもの達のうち、

閑丸は手にした傘を構え、リムルルはその武器ハハクルを抜き取った。

ぐるぐると虚空を舞った刃の風車と取り付けられた鎖が、影の中に消え失せる。

そして、影が空に向けて、少しずつぐいぐいと伸びあがっていく。

盛り上がった影は、棒のように細い人の姿へと変じた。



リムルルは息を呑んだ。

地に張り付いた影の中から、幽鬼の如く陰鬱な、やせ細った男の上半身が浮き出し、じっとこちらを見ている。

「追うよ……!」

落ちかかった長い前髪の間から、擦れていながらもどこか弾んだ声が発せられ、

男は影の中から握り拳を突き出してくる。

その中で、一匹の蝙蝠がもがいていた。

「えっ!?」

驚きの声を発するリムルル。

蝙蝠は男の手から解き放たれたが、

さながら鬼火のように朧気に揺らぎながら、二人の方へと向かってくる。

(あれに触れちゃいけない……)

そう悟ったリムルルは、コンルにカムイシトゥキを作り出してくれるよう指示すべきかを刹那迷う。

そんな彼女の足元に、じわじわと影が近づいていた。

「行けっ! 霧雨刃!」

閑丸の叫びと同時に、彼の手にした傘が投げつけられる。

リムルルの足元にまでにじり寄る影から抜け出した、細い腕と手と、それに握られた風車のような鎌。

それがリムルルを切り裂こうと襲い掛かる寸前、飛び道具となった傘が男に叩きつけられた。

「ギャッ!」

甲高い悲鳴が空を裂き、男の枝のように細い体がよろめく。左右にゆらゆらと、大きく傾ぐ。

何かおかしい、

その場から飛び退いたリムルルは男の仕草に、むしろ存在そのものに激しい違和感を覚えた。

「待って、閑丸くん!」

傘を手放し、刀を抜こうとしていた少年に駆け寄りながらリムルルは叫ぶ。

「どうしたの?」

「あの人、何かおかしいよ!」

閑丸は瞬いたが。

「それはわかるよ。影から出てくるなんて尋常な人間じゃないから」

「そうなんだけど、それだけじゃなくて」

二人が話す間に、男の体はさらに大きく前後へぐらぐらと揺れ、ついに前のめりに倒れ込み、その場を覆う影へと沈み込んでいった。

幽鬼のような男の姿と気配が完全に消え、辺りに静寂が戻る。

「また襲ってくるかもしれない」

閑丸の呟きに、リムルルの体にも緊張が走る。

「こっちへ」

促され、リムルルは精霊コンルと傘を拾い上げた閑丸と共に、巨木の下へ駆け込んだ。

「あいつは影の中に隠れてるみたいだから……安心できるかはわからないけど」

閑丸のその声に、リムルルは緊張を覚え周囲に目を走らせた。

「それで、おかしいっていうのは?」

「あの人の気配」

何かを口に出す、ということは形を持たなかったそれを現世へ引き出すこと。

その事に思いを馳せ、リムルルは刹那怯んだがそれを心に押し込める。

巫女となるなら、躊躇していてはならない。

「生きてる人のものじゃないと思う」

「え?」

閑丸の目が刹那見開かれる。

「気配が全然違うの……冷たくて澱んでいて、あったかさがまるでない。

カムイコタンにいた頃、吹雪の夜に時々死んだ人の叫びや気配が表れることがあって……

姉さまがトゥス(巫術)で除霊をしていたんだけど……それにそっくり!」

「リムルルさんは巫女なんだったね」

呟き、閑丸は傘の柄を握りしめ直す。

「死人だとすると、あいつはここで死んだのかな」

「……この村で?」

リムルルは尋ねる。

「正確には、村の外れの……山の裾野に建てられた城だよ。

城と言っても、見たことのない変わった形をしてるけど」

「城っていうと……レプンモシリのチャシ(砦)みたいなものよね?」

閑丸は瞬いた。

「……わからないけど」

そう呟いた閑丸を、真剣な表情でリムルルは見据える。

「閑丸くん、この村でいったい何があったの?」

「それは」

閑丸が口を開こうとした刹那、

二人の間に割り込むように、突如ぶら下がって来た影。

「どこだい?」

逆さまの影はそう呟き、

刃のように釣りあがった細い眼でリムルルを捉えた。

その両眼からやせ細った顎まで筋を作り上げている、真っ赤な涙。




「いやあああああ!!」

リムルルの悲鳴。

刀を抜き取った閑丸に襲いかかる刃の風車。

鋼と鋼の打ち合う鋭い音と共に、閑丸と影の間合いは離れる。

飛び退いた閑丸の瞳は冷たく鋭い。

「鬼め」

跳ね返った風車のような鎌、受け止めたそれと似た鋭い刃のような微笑みが、

影の薄らいだその者の顔の中でさらに釣りあがる。

「篝火を奪っておいて、お前は好いた娘と一緒かい……」

彼の下半身が沈んでいる影が、どろりと木の幹を這う。

男はその中をまるで泳ぐように、明らかに正気のものではない笑みを浮かべながら動いている。

幹を下へと移動していく、一際黒く、暗いその影はまるで、どす黒い血だまりのようにも写った。



閑丸を援護しようと、ハハクルを構えていたリムルルは目を見張る。

同時に、閑丸も影から現れた死人らしき男の発したその言葉に、反応したことが見て取れた。

鬼。

まだ見ぬその存在がまたしてもリムルルの前に、

そして鬼を求める閑丸の前に立ち塞がって来たのだった。





「やっぱなあ、実際天狗なんだろうなあ、こいつはよ。」

顎を太い指でさすりさすり、花諷院骸羅は唸るように言った。

「さもなきゃあ、いきなり空中から降って湧いてきやがったりしねえだろ!」

彼は天を仰ぐ。

一面に、重苦しく黒雲の垂れ込めた天を。

「それは先ほど彼自身が説明していたことだ。聞いていなかったのか?」

凛とした女性の声に、骸羅は首をすくめる。

「オ前ガ何ト思オウガ、たむたむカマワナイ。一刻モハヤク、黒イ神ノ村ヘ向カワナクテハ!」

身を覆う晒(さらし)も痛々しいタムタムが、焦り滲ませ唸るように言葉を発する。

その手には、巨大な愛刀が握られていた。

「ああ、そうだっけな。ちゅか、おめえんとこの悪神は枯華院まで乗り込んできやがったのよ!

バケモンの分際で、なんつぅ図々しい野郎だ!」

そう怒鳴り、歯軋りした骸羅の頬には何かで殴られた跡がまだ赤く残っている。

「半蔵が天草を見かけたと言っておったが……異国の魔神なぞを引き連れておるとはな」

柳生十兵衛が重々しい声で言う。

「天草とその魔物が、おそらくは村ひとつを乗っ取った。直に、それだけの被害ではすまなくなるだろう」

凛とした声を持つ女性……仏蘭西からやって来た女性剣士、シャルロットが言った。

「ソノトオリダ。黒イ神ノ目的、今ノ世界ヲ滅ボシ”おりん・となてぃう”ヲ開クコト!」

「む?」

十兵衛が、タムタムのその言葉に眉をしかめる。

彼はタムタムから最も遠い位置に立ちながら腕を組んでいた。

骸羅が大げさに瞬きをくり返して唸る。

「なんじゃい!? またおめえの國のわけわからん呪文かあ?」

「”おりん・となてぃう”、訪レテハナラナイ破滅ノ時代」

「アルマゲドン……聖書に語られる世界の終末に戦われる戦争だが、そのような破滅と考えていいのか?」

シャルロットの問いに、タムタムは答える。

「”おりん・となてぃう”、動キノ太陽トイウ意味。

世界ハ地震ニヨッテ滅ブ。ソノアトハ、黒イ神ノ支配スル闇黒ノ時代ガ永遠ニ続ク!」

「天草が作ろうとした闇の世界か……」

シャルロットは形の良い眉をひそめ呟く。

「世を滅ぼすという目的が一致したがゆえに、奴は魔神と行動を共にしておるということかの」

十兵衛の言葉にタムタムの声が重なる。

「たむたむノ村ニ現レタトキ、黒イ神ト天草ハ共ニイタ。

オソラクハ黒イ神、霊トナッタ天草ヲ呼ビ寄セ、封印ノ綻ビヲ奴ニ破ラセタノデハナイカト、たむたむ見テイル」

ぽつりと、雫が彼の顔を覆う赤い仮面を打つ。

「降ってきおったか」

十兵衛が呟き、

「やはり、ここからその村までは馬を使った方がいいだろう」

シャルロットが彼に顔を向け告げる。

「馬なんざめんどくせぇや! 走ってった方がよっぽど速えぜ! で、おめえはどうすんだよ天狗!」

骸羅はタムタムを見てがなる。

「その巨体では馬が持たないだろう」

シャルロットが冷めた声で言った。

「たむたむモ、走ルコト慣レテイル。シカシ、ソウ思ッタトコロデ仕方ガナイガ、今コソぱれんけすとーんノ加護ガアレバト願ウ!」

僅かに俯き、悔しげな声をタムタムは仮面の下から響かせた。

「あ?」

骸羅は顔をしかめる。

「たんじるすとーんヲ操ル黒イ神ノ技ニ、巻キ込マレタ黒ノなこるるヤりむるる、ドウナッタカハワカラナイ。

ダガ……アノトキ、れらガ真っ先ニ、刃ヲ振ルイ黒イ神ニ立チ向カッテイッタ。ぱれんけすとーんノ加護アラバ、

たむたむ今スグニデモ、黒イ神ノ元ヘ駆ケツケ、れらヲ助ケルコトデキル!」

激しさを増してきた雨の中、異国の戦士は天を仰ぎ叫んだ。

「れらノ國ノ神々ノ加護ガ、れらノ上ニアルヨウニ!」

その様子を見ていた骸羅は、あの時洞窟の中で見た娘の姿を思い出す。

脳裏に最も鮮明に思い出されるのは、娘の静謐な赤い瞳。

(真っ先に、異国のバケモンに飛び掛ってったってか。肝の据わった娘っ子だぜ)

その時ふと、骸羅は別のことを思い出した。

つい先ほど辞した粗末な山村の家の中で、骸羅と柳生十兵衛、そして異国の女性剣士シャルロットの前に頭を下げていた

小さな少女の姿を。

「お願いいたします」

鬼と呼ばれた剣士、壬無月斬紅郎の娘にしてその身内の唯一の生き残り、詩織ははっきりとした声でそういった。

「お侍様がた。どうか鬼を、父をお止めください」

幼いながらも凛とした決意を秘めた硬い声で、”鬼の娘”は三人の前に手を着き、再度頭を下げた。

「それはすなわち、そなたの父が斬られても止むなしということになるが、承知の上かの」

十兵衛の問いに、頭を上げて彼を見た娘はこっくりと頷いた。

少女の悲壮な決意はその場の全員に見て取れたが、

家に入る前に十兵衛から峰打ちを喰らい、事情の説明後に同行を認められた骸羅はこう尋ねずにはいられなかった。

「おい、嬢ちゃん。おめえさんはここに来た覇王丸にもそう頼んだんだろ。奴の腕、信じてやれねえのかよ?」

少女は頬を赤く腫らした骸羅を見つめていたが、こう言った。

「詩織がお願いしたお侍様はおっしゃいました。望みを叶えると、絶対に約束はできないと。

ですから詩織は、お侍様がたにもお願いするのです。父はもうこれ以上、刀を振るってはいけないと思うのです」

骸羅は眉を動かし口を歪めた。

(いってぇどういうつもりなんだ、覇王丸の野郎!)

風来坊ではあるにせよ、他人の願いを無下に断るような人間ではないと思ってきたのだが、

それは骸羅の思い違いに過ぎなかったのだろうか。

(とりあえず今は、異国のバケモンと天草とかいう野郎を止めなくちゃなんねえが、

あの野郎からきっちり聞き出さねえとな!)

骸羅は拳を握り、もう片方の掌に叩きつけ、そして振り向く。

「おい天狗!行くぜおらぁ!娘っ子とてめえの國のバケモンが気になるなら、

こんなとこでもたついてる時間がもったいねえだろうが!」

叫ぶなり、後も見ず骸羅は降りしきる雨の中を駆け出した。





「いい加減にしなさいよね、あんた」

紫のナコルルはしかめ面で、言い捨てる。

「私は別に心配なんかしないわよ。そんな義理はないし。むしろせいせいするわ、

大体こんな情けないやつにアイヌの戦士は任せておけないでしょ? わかるわよね?」

その彼女を見ている、どこか哀しげな大きな黒い瞳。

「ウエンカムイに見事にしてやられた自分の無様を棚にあげてさ、体を使わせてってどういう神経よ?」

彼女の目前には、ひとりの少女の透き通った姿があった。

黒く艶やかな長い髪、頭の上で結ばれている赤い飾り布。

(あなたの使命を思い出してください)

透き通った少女は言った。

(私たちはアイヌの巫女、シカンナカムイ流刀舞術を受け継いだ剣士。

ウエンカムイの振る舞いを許してはならないのです)

紫のナコルルは、蔑んだ視線をなおも少女へ向けていたが、

その言葉は明らかに、彼女の心を動かしたようだった。



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