銀のしずく ふるふる 第一章 〜羅刹丸〜(3)

レラが立ち上がる。

男の隙を突くべく、チチウシを手に足を踏み出す。

走りこもうとした刹那、男の背が振り向き、手にした紅鋼の刀を彼女目掛けて薙ぎ払った。

足を止め飛びのいたが、レラの足首から鮮血が飛び散る。

「くっ!」

それほど深い傷を負わずに済んだが、鮮血はみるみる広がり、チュプケリの内側に流れ落ちていった。

「引っ込んでろ、小娘が。てめぇは後でゆっくり切り刻んでやるからよぉ。」

「サセナイ・・・・・・オ前ハたむたむガ倒ス・・・・・・!」

傷を負った戦士が呻く。

タムタムを見た男は歯を剥き出し、破壊の愉悦に酔いながら嗤う。

「さっきは袈裟懸けにし損ねちまったが・・・・・・とどめは胴体二つ斬りと行くかぁ!」

足を引き、魔物が紅い刃を引き寄せ構える。

舌がべろりと、刀身を舐めとっていった。

「てめぇの臓物(ハラワタ)にまみれてくたばりな。」


タムタムが刀身を構え、魔の男めがけて薙ぎ払う。

その剣撃を、男は身を引いてかわしていた。

刹那。

「天覇」

声と共に、男の剣は暗風を巻き起こす。

湧き上がった凄まじい暗風に、タムタムの動きが止まる。


「断空烈斬!」

魔物の男は渾身の力を込め、

手にした血錆の刀をまるで鉈のように打ち下ろした。

勇者たる少年の体の上に。

男を中心に凄まじい暴風が湧きあがり、砂がバラバラと体を直撃する。

レラは思わず、腕で眼を庇った。

刹那、彼女はふとした違和感を覚える。

凶暴な風に混じり、ほんの刹那だが別な流れが感じとれた。

が、確かめる間すらなくようやく目が慣れてきたときには。

魔物の男・・・・・・悪意と死そのものであるような男が、

ただ一人立ち尽くしていた。

男の喉が、楽しげに鳴っている。

朦々と立ち込める土煙。

それが晴れた頃、異国の勇者である少年の姿はどこにも見られなかった。

「次はてめぇだな。小娘。」

魔物の男の真っ赤な眼が、禍々しい喜びの色を湛えてレラを捕らえた。




全身が重い。

そして、手足はまるで消滅したかのごとく感覚がない。

身を動かそうとして走る激痛。

かすれた呻き声を漏らしたタムタムの眼に、

反り返った黒い靴先が映った。

誰かが、彼を見下ろし佇んでいる。

誰ダ・・・・・・?

「──兵有奇変、不在衆寡。」

この言葉は。

朦朧としていた、頭の芯が刹那に冴え渡る。

マサカ・・・・・・。

「力に頼るな。戦いを決するものはそれのみに非ず。」

大きく見開かれた、少年の黒い瞳の中に映る人影。長い白髪が、風に靡いている。

「心を静めて敵の出方を見よ。敵が攻勢に転ずる時、生じる隙を狙え。」

起き上がろうとした。それは叶わなかった。

「己を磨くが良い。」

口を開くが、喉からは空気がわずかに漏れ出るのみだった。声が出てこない。

去ッテシマウ。

力を振り絞り、手を差し伸べようとする。

体は動かない。

一陣の風が彼の前で舞い、そして消えた。

行ってしまったのだ、ということを少年は理解した。


呆然としていた少年は、激痛に耐えつつようやく半身を起こす。

(たむたむハ・・・・・・俺ハ・・・・・・ 選バレシ勇者・・・・・・俺ハ、神ノ戦士・・・・・・。)

呼吸のたびに胸がズキズキと痛み、骨が軋む音がする。

頭の芯で気力を振り絞り、思いを強めていく。

(神ノ戦士・・・・・・黒イ魔物、倒サネバ・・・・・・)

体が呼び起こす。

鉈の如く振り下ろされた黒い魔物の刃の、凄まじい威力と風圧。

首を振る。その行為にすら、受けた傷の鋭い痛みが伴う。

(ソシテ、れらヲ・・・・・・・れらヲ守ラネバ・・・・・・。たむたむヲ救ッテクレタ娘・・・・・・神ヲ見ル娘ヲ。)

彼はようやく立ち上がり、ふらつく素足に力を込め、地を踏みしめる。

頭を微かに振り、自身の刀ヘンゲ・ハンゲ・ザンゲが、地に突き立っているのを目にとめる。

(アノ時・・・・・・俺ハ、オウニ誓ッタ・・・・・・)

一歩一歩、自らの刀へと歩み寄っていく。

(必ズ・・・・・・真ノ勇者ニナルト!)

少年は手を伸ばし、己が刀の柄を握り締め、渾身の力で引き抜いた。


「おい、小娘。」

刃のような笑いを浮かべ、紫黒の肌を持つ男は言った。

「ありゃあお前の情人イロだったのか?」

黒い髪の娘は、その場にうずくまり俯いている。顔にどのような表情が浮かんでいるのか、

男からはまるでわからない。

今あの娘の中では、絶望と恐怖が渦を巻いているはず。

そう思うと、男は笑みを止めることが出来なかった。

「惜しいことしたなァ。指の一本も残さず消し飛んじまってよ。」

男はその場で、紅い刀を振り下ろす。

ゆっくりと、レラに向かって歩を進める。

「なぁに、すぐに送ってやるから安心しろ。その前にちょっと泣き喚いてもらわにゃならんがな。」

男は刀を顔の前に引き寄せ、持ち直した。

「あいつで大して楽しめなかったからよぉ・・・・・・!」


「冗談じゃないわ。」

うつむいた顔にかかる黒い艶やかな髪の間から、ぽつりと呟きが漏れた。

男が足を止める。

「あぁ!?」

ひゅっ、と何かが空を切った音。

次の刹那。

間合いを詰めたレラは男の咽喉下に、宝刀チチウシを突き立てていた。

「あなたが思っているような下卑たものじゃない。」

男の口が大きく開いたままで引き攣る。

「初めて名前を呼んでくれた男よ。」

レラはそのままチチウシを薙ぎ、男の咽喉をかき斬った。

魔物の黒ずんだ血が噴き出す音。

男の手が開き、握られていた血の色に染まった刀ががちゃりと地に落ちる。

その手が、レラの手首を掴んで引き上げた。

「なんっ・・・・・・!」

対処するよりも先に、手首を掴んだ手に猛烈な力が込められる。

「あッ!」

顔をしかめるレラ。彼女の手が開き、宝刀チチウシが落下した。

ひゅーっ、ひゅーっという風の音が、レラの耳に届く。

上目を上げると、先ほどレラが切り裂いた箇所から奔流となって流れ落ちる紫黒の血と共に、

漏れ出る空気が音を立てていた。

レラが見る前で、その傷口がみるみる塞がっていく。

「残念だったなァ、小娘。俺に勝てる夢でも見たか?」

再び、声を出せるようになった魔物の男は、レラの手首を握り締める手に、さらにギリギリと力を込める。

レラは、悲鳴を喉の奥で堪えた。

「クハハハハハハ・・・・・・!」

狂ったような哄笑が響く。

レラの手首が、圧し折られようとした刹那。

突如大量の液体が、二人の周囲に飛び散った。

剣気が風を切り裂いたこと、そして掴まれた腕が突如重くなったことをレラは感じる。

二人に降り注いだ黒ずんだ液体は、魔物の男の右の肩口から噴き出していた。

そこにはもう腕がない。

レラの手首を掴んだ男の手。

二の腕から切断されたそれは、今やレラの手首からだらりと重たくぶら下がっていた。

男が歯軋りし、うずくまった隙に、レラは彼の側から飛び退く。

まだ硬直にまでは至っていないものの、ゆっくりと彼女の手首を締め上げ始めていた

男の指を引き剥がし、地にどさりと落ちたそれを蹴り飛ばした。


「てめぇぇッ・・・・・・! このくたばり損ないがァ!!」

片腕を失った魔の男が立ち上がり、結び上げられたざんばらの髪を振り乱して吼えた。

全身傷を負いながらも、

凄まじい闘気を全身から発している異国の戦士、タムタム目がけて。

「負ケルコト・・・・・・許サレナイ・・・・・・ソレガ、戦士ノサダメ!」

ぜぇぜぇと、苦しげな息の下からそう呟き、タムタムは再び魔物の体液に塗れた大剣を振るおうとする。

魔物の怒号が響き、残った方の拳を固めると、タムタムの横面に叩き込んだ。

彼の体が倒れ土煙があげる。魔の男は残った左腕で、地に投げ出されていた己の血刀を拾い上げる。

「今度こそ八つ裂きにしてやらぁ」

よろめいた体勢を立て直し、唸るように声を発しつつ、男は足を踏み出した。

タムタムは動かない。

どうやら、体力に限界が来たようだった。


「おいで、シクルゥ!」

レラの凛とした声が響いた。

血走った目をますます朱に染めながら、魔の剣豪が振り向く。

狼に跨った娘と目が合った。

「舐めんじゃねぇぞ・・・・・・蛆虫がぁぁ!!」

魔の男は血の色の目に殺気を爆発させ、狼に騎乗するレラ目掛けて突進する。

娘に動じた気配はなく、

男の額を指差した。

もう片方の手は、人差し指を見えない糸にかけたような形で後ろに引かれている。


「トゥカーン」

刹那、魔性の剣豪の動きが止まった。

だが、怒号とともに血刀が振り下ろされようとした刹那。

狼が倒すべき獲物に突進し、その背の主たる少女は宝刀を構えていた。

刃が振り下ろされた。魔物の額に。

あたり一面に飛び散ったのは青黒い、とでも形容すべき体液。

男の動きはそのまま止まり、口だけがぱくぱくと動く。明らかに苦悶の様子が見える。

レラが、首の飾り布を解き手にしていた。

「自然の痛みを知りなさい!」


"神の輪舞"が、魔物の弱点である額をさらに討つ。

魔物は、額からどろどろと崩れ落ち、もはや人の男の姿を留めていなかった。

真っ赤な丸い目玉だけが、崩壊する魔性の姿の中で爛々と輝き続けている。

満ち満ちているのは、そこを突き破り、飛び出してあらゆるものを汚染しようと企むかのような焼け付く怨念。

男は、手をレラの方へと伸ばした。

なおもその手は、悪意と殺意に満ちている。

叫び声が轟いた。


「俺は諦めんぞうぉおぉぉぉお怨!」


声が消えた頃には、そこにはもう何の姿もなく。

わずかに、魔物の体を構成していた肉片が、どろどろと沸き立っているのみだった。



魔物の体液に塗れたチチウシを、布で拭ったレラ。

微かな呻き声が耳に届いた。

振り向いたレラは歩み寄る。

傷ついた戦士は、自らの力で起き上がることができない状態だった。

レラの後に付き従うシクルゥが、心なしか悲しげに鼻を鳴らす。


苦しげな息の下から、声が聞こえる。

「行ケ・・・・・・れら。オマエ、ナラ・・・・・・黒イ神、倒スコトデキル。」

瞼が開き、黒い瞳がレラを映す。

「たむたむ・・・・・・モウ闘エナイ。サイゴニ、黒イ神ト・・・・・・憑カレタ男ノコトクワシク、オマエニ、話サナクテハ・・・・・・。」

「黙って。」

レラは傍らに跪き、手甲を嵌めた手をタムタムの紅く開いた傷口の上にかざす。


傷の痛みが、潮の様に引いてゆく。

同時に、体中に満ちていく安らぎ。

突然のことに驚き、タムタムは頭を起こす。

魔の男から受けた刀傷が、レラの掌の下で塞がれていく。

タムタムは目を見開き、黙ってレラを見つめていた。

その瞳には戸惑いの色が濃く見える。

「オマエハ・・・・・・。」

言いかけて、彼はぎゅっと口をつぐんだ。

「スマナイ。世話ヲカケタ。」

「余計なことは考えなくていいわ。ウエンカムイを見つけるまでは、お互い援助が必要でしょう。」

掌を引き、立ち上がったレラは冷めた口調で言う。

「立ちなさい。」

半身を起こしたタムタムの肩に手をまわし、腕をとり自らの肩に置く。

立ち上がった時に肩に感じる、人の重み。

「あなたが動けるようになったら、すぐに発つわ。そのつもりでいて。」


二人とシクルゥは、無人となった宿場町の宿屋の一つに入った。

寝具を整えてタムタムを寝かせ、部屋を出る。

体のあちこちに、魔物の男の体液が乾いてへばりついていた。

洗い流さなくてはね。

思いつつ、レラは己が掌に目を落とし、手甲を外す。

手首には魔の男が残していった、青黒い痣がくっきりとあった。

だが、彼女が思い起こしたのは戦いの記憶ではなかった。


「私にも、使えたのね。」

ぽつりと呟く声。


タムタムを救ったのは、アイヌの巫女の持つ、傷を癒す力だった。

巫女トゥスクルが傷ついたアイヌの戦士のために使う”治癒の息吹”、フッサ。

レラは思う。

私たちが二つに分かれた時。

この力は、ナコルルにだけ受け継がれたのだとばかり思っていた。

私にできることはただ、戦うことだけ。

ナコルルの代わりに敵を倒し、殺すことだけ。

でも私にも、フッサ・・・・・・甦りの息吹は宿っていた。


もしかするとナコルルにも、戦う力は宿っているのかもしれない。

私が、彼女にはないと決め付けてしまっているだけで。

彼に出会わなければ、ずっと気付かなかったかもしれないわね。

刹那、その男が休む部屋へと目をやる。

「おいで、シクルゥ。」

彼女はトゥレンカムイである狼を従え、その場を立ち去った。



一人、部屋の中に横たわる、異国の戦士である少年。

天井を透かすかのように、上空を見つめていた彼が呟く。


「我ガ神、けつぁるくぁとるヨ。

れらト巡リ合ワセテクダサッタコト、感謝シマス。」


そして今。この地には、偉大なる彼の神の化身である方が降り立っている。

全ては、禍をなす黒い神を倒すための必然なのだと。

タムタムはそう思いを巡らせていた。

体の奥底から、再び力がみなぎってくるのがわかる。

彼は決意を新たにする。

俺ハ、モット強クナル。

必ず、神の戦士としての使命を果たしてみせる。



夜の帳の中。宿場町を、上空から見下ろす人影があった。

夜空に舞う風に靡く、長い白髪。

青竜刀を手に中空に佇む一人の老爺の周囲を、風はくるくると舞い、巻きつけた紅い三角巾と若葉の色の衣服をなびかせている。

「あの者から出ずる邪気に相違ないか。僅かだが、確実に強まっておる。」

この倭の国に、忌まわしき妖魔は憑いた。間もなく覚醒し、大いなる禍を引き起こすことは必定。

魔の復活に伴い、各地で強まる邪気はその妖魔・・・・・・"闇キ皇"に呼応し、さらに禍を広げることになるだろう。

「その前に滅さねばなるまい。」



それにしても。

老爺は心に述懐する。

縁とは奇妙なもの。

この人間じんかん(俗世)において、あの者と逢うことは二度とあるまいと思っていたが。

「成長したな。」

老爺の呟きが、夜風に流れていった。



レラとタムタムが去り、数日の後。

魔物に壊滅させられた宿場町に程近い野原には、二人の立てた魔物の犠牲者の土塚が風に吹かれていた。


戦いの心を受けたアイヌモシリの巫女。神の名を受け戦う、マヤの戦士。

二人の若き剣士が、それぞれの使命を完全に理解し、それぞれの技を極めた状態であったなら。

魔性の剣豪・・・・・・後に、羅刹丸と呼ばれたその反面の存在は、この宿場町でその足跡を途絶えさせていただろう。


人気なく、時折侘しい風の音が僅かに静寂を乱すだけとなった宿場町に、ぽつりと声がした。

「ケッ・・・・・・殺らなくちゃいけねぇ奴の数が、増えちまったじゃねぇかよ。」

びちゃり、びちゃりと身の毛のよだつ音と共に、忌々しげに、だがどこか愉快でたまらぬという調子を含ませ、男の声が地を這っていた。

笑い声を立てようとしているが、ぐちゃ、びちゃという音が少し派手になっただけだった。

「にしてもこのザマはなぁ・・・・・・再生に思いっきり手間ぁかかっちまうじゃねぇか。」

地に、直に生えているかのような青黒い首。


既に肉と血は固まり、血に固まった髪も頭にへばりつき、皮膚も大部分繋ぎ合わされ、唇も再生しようとしている。

「あのデカブツと獣付きの小娘。必ず見つけ出して解体してやらぁ。」

びちゃびちゃと、血肉が首の元に集まる音が激しさを増してゆき、肉片が盛り上がっていった。

低く、喉の奥で嘲笑(わらい)声を立てながら、彼は考えていた。

あいつら、見つけたらどんな具合に礼をしてやろうか。

男の方は手足をすべて切り刻んでから、首を落として口に刀を突っ込んで・・・・・・

いや、手足を落としてしばらく生かしといた方がいいな。

それから、奴の目の前で女をばらばらに切り刻む。

考えただけでゾクゾクするぜ。


「待っていやがれ、蛆虫どもがぁ。」

魔物の男・羅刹丸の笑い声が、侘しく吹く風に乗り、流れていった。


第二章 覇王丸と

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