第六章 伝説の桜餅!?
「う〜、疲れたぁ。なんで大して動いてないのに、こんなに疲れるんだろ」
城の廊下を歩きながら、暗い顔の鈴姫が唸る。
ここ数日、鈴姫はとても珍しいことに、朝から全ての稽古をこなしていた。
世話係である刃兵衛の胃痛の原因は、ちょっとだけは自分にあるかもしれないと思い、少しは我慢をしてみようと考えたのだ。
しかし、鈴姫の努力はそろそろ限界を迎えそうだった。
「あーもー! 体動かしたいっ。運動すればイライラも吹き飛ぶのになぁ。桜餅もしばらく食べてないし。
はあああああ………」
盛大な溜息を吐き出しきった時だった。
「伝説の桜餅ぃーー!?」
まるで見計らったかのようなまで侍女たちの部屋から聞こえてきた単語に、鈴姫は勢いよく振り返った。
詳しい話を聞かせろと部屋に突入したいが、侍女たちの部屋に姫である自分が割り込むのも悪いだろう。
逸<はや>る気持ちを抑え、鈴姫は身を屈めて壁に張りつくと、そっと耳を澄ませた。
「その色透き通るように美しく、その艶〈つや〉瑠璃〈るり〉のように麗しく、その形――――」
「その形?」
「あれ、なんだったかしら。忘れちゃったみたい。まあ、とにかくすごく綺麗なのよ」
「見た目がそれだけ綺麗なら、味の方も相当凝ってそうね……」
小さく呟くと、鈴姫はごくりと喉を鳴らした。
「ひと月前に初披露されたばかりなんだけど、完成の噂を聞きつけて、わざわざ遠くから足を運んできた人もいるとかいないとか」
(初披露がひと月前なのに伝説って……)
どうにも胡散臭い気もするが、それでも伝説と言われる桜餅なら、一口でもいいから食べてみたい。
「やっぱり高いの?」
「そりゃあねえ。そんなにたくさん作れるものじゃないみたいだし」
そこまで聞いたところで、はたと気づく。
それだけの品なら、きっと江戸や上方(かみがた)でしか手に入らないのではないだろうか。
そうなると、藩主である養父に頼むほかない。
「うーん……」
鈴姫はしばらく悩んだが、諦めた顔で首を振ると、その場から立ち去ろうと立ち上がった。
(すっごく食べたいけど、そんなことで父上を煩わすわけにはいかないわよね)
「そんな品が、天降で出来たなんてねぇ…」
「えっ!?」
先ほどよりも勢いよく振り返り、鈴姫はもう一度耳を傾ける。
「今度見に行くだけでもしたいわねー」
「本当は買いたいところだけど」
話の流れからして、やはり聞き間違いではなく、伝説の桜餅は天降にあるようだ。
鈴姫は居ても立ってもいられず、自室へと駆け出す。
「あら、今、誰かいなかった?」
「え? ……あっ! 思い出した! 最後の一節は――――」
今、ここに鈴姫がいれば、肩を落として外出を諦めただろうが、残念ながら彼女は既〈すで〉に部屋に戻り、おしのびの準備をしていた。
当然、あとに控えていたお稽古は放棄して、伝説の桜餅を食すべく鈴姫は城下の大通りに立っていた。
「さて……、どこにあるのかなぁ」
一刻も早く桜餅が食べたくて飛び出してきたが、もっと詳しく話を聞いておくべきだった。
「でも、最近出来たばっかりで、伝説なんだから誰か知ってるわよね」
鈴姫は通りを見渡して、甘味に目がなさそうな若い娘を掴まえた。
少しふくよかなその娘は、鈴姫の姿を見て目を見開く。
「あ、あのわたくしが……な、なにか…………」
「ちょっと尋ねたいんだけど」
娘は怯えたような様子だが、鈴姫は気付かずに話を続ける。
「伝説の桜餅って知らないかしら?」
「え……、伝説の桜餅ですか…………。その、聞いたことはあるのですが、詳しいことは全く……」
「そう。分かった。ありがとう」
鈴姫が短く礼を言うと、彼女は逃げるように走り去っていった。
それを横目で見送り、次の相手を探す。しかし、なぜか周囲に視線をやると、皆小さく悲鳴を上げて小走りに去っていってしまう。
(なにかしら……? まさか、正体がバレちゃったとか……)
正体など金色の髪をなびかせている時点で、天降の人間にはとうに知られているのだが、鈴姫にはその自覚がない。
そして、彼らが怯えているのは、桜餅を求める鈴姫の目が殺気立って見えるからなのだが、舞い上がっている本人はまったく気付いていない。
「ま、いっか」
今、鈴姫にとって大事なのは正体がバレているかどうかではなく、伝説の桜餅にありつけるかどうかだ。
キョロキョロと辺りを見渡すと、少し遠くに裕福そうな女性が歩いていた。小物も洒落ていて、流行にも敏感そうだ。
「よし、カンペキ」
今度は間違いないと、意気込んで女性の元に駆け寄る。
「ちょっと聞きたいんだけど、いいかしら?」
「きゃ……! は、はい、なんでございましょう……」
「伝説の桜餅って知らない?」
「いえ、申し訳ないですが、……わたくしは、身につけられないものに興味がないもので、全く……」
「うっ! そ、そう…………」
鈴姫はその場に手と膝をつき、がっくりと項垂〈うなだ〉れた。ひどい落胆ぶりに、女性は心配そうな顔で鈴姫を覗き込んだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「うん、……平気。まだ二人目だし、うん、平気」
自分に言い聞かせるように答えた鈴姫は、あまり平気ではない様子で立ち上がると、覚束〈おぼつか〉ない足取りのままどこかへ向かっていった。
「伝説の桜餅なら、知ってるわよ、私」
「へ?」
結局、おしのびのときに、よく立ち寄る茶店〈ちゃみせ〉で桜餅を頬張っていた鈴姫は間の抜けた声を上げた。
「だから、伝説の桜餅をどこで売ってるか知ってるって言ったのよ」
「ええええぇえぇーー!? …………うそぉ……」
あの後も何人もの人に声をかけたが、逃げられたり子供に泣かれたりで散々だった。
意気消沈した鈴姫は、ついに諦めていつもの桜餅を食べにきたのだった。
看板娘のお福は、店へ来るたびに話の相手をしてくれる、鈴姫にとって大事な友人である。今日も桜餅とお福に心を癒してもらおうと
やってきたのだが、まさかここで情報が手に入るとは思ってもみなかった。
「アタシの苦労って一体……」
「鈴ちゃんは本当に桜餅が好きねぇ。おかわりする?」
「ううん、いい! それより伝説の桜餅がある場所教えて!」
お福の両肩を掴み、興奮した様子で詰め寄ると、お福はなぜか眉を寄せながら言った。
「教えるけど、怒っちゃダメだからね?」
「え? ……う、うん」
伝説の桜餅と怒ることと、どう関係があるのか分からないが、とりあえず頷いておく。
「ここを出て、右に行くとすぐの角に薬屋さんがあるでしょう。そこを曲がって、そのまま歩いてると、ちょっと行ったところに
隅よしっていう呉服屋があってその隣が伝説の桜餅を置いてる店よ」
「ありがと、覚えたわ。じゃ、行ってくる」
鈴姫は注文した残りの桜餅を両手に持つと、店を飛び出していく。
「怒っちゃダメだからねー!」
「はいはい〜」
見送りながら、もう一度同じ注意をするお福に、適当な返事を返すと、鈴姫は全速力で町を駆けた。
「………………え?」
お福に言われた店の前で、鈴姫は呆然と立ち尽くしていた。
伝説の桜餅があるはずなのに、どう見ても食べ物屋ではない。
しかし、入ってみないことにはどうしようもないので、鈴姫は恐る恐る戸に手をかけた。
「お、お邪魔しますー……」
中に入って、鈴姫は愕然〈がくぜん〉とした。
店にはずらりと瀬戸物が並んでいて、茶碗や花器といった身近な物から、何を表現しているのか分からないおかしな置物まである。
「………まさか」
「あ、いらっしゃいませ」
「ううん、まだ、諦めないわよ」
奥から出てきた店員に、最後の望みをかけて聞く。
「伝説の桜餅を置いてるって聞いたんですけど!」
「あ、はい。こちらですね」
指された方向に目を遣る。
そして、そのまま固まった。
「………………………………………………………………」
「その色透き通るように美しく、その艶瑠璃のように麗しく、その形誠〈まこと〉より整う。っていうのが謳〈うた〉い文句なんですよ」
「………………………………………………まこと、より……」
凍りついていた鈴姫が、一言だけ発する。
「どうぞ、ご覧になって下さい」
差し出されたそれを、無言で受け取った。
確かに美しい、艶めいている、整っている。だが……。
「………………食べられないわよね」
「はあ、まあ、作り物ですからね」
焼き物の桜餅は、葉の色合いといい、餅の凹凸〈おうとつ〉部分の細工といい見事としか言いようがない出来だ。
「生きた伝説と呼ばれる窯元〈かまもと〉が、遊びで作った物なんですけどね。あまりに素晴らしいので頼み込んで譲ってもらったんですよ」
「……ああ、………………それで、伝説の桜餅なのね」
「いやあ、でも、思ったより広まらなかったですね。あははは」
お福が怒るなと言っていた理由が分かった。
こちらの気も知らず、呑気〈のんき〉に笑う男に八つ当たりしてしまいそうで、鈴姫は食べられない桜餅を突き返した。
「もうよろしいんですか?」
「うん、もういいの……」
小さな声で答えて店を出ると、鈴姫はまた足をよろめかせながらお福の居る店へ向かった。
「桜餅、品切れになるまで食べてやる……」
その日、鈴姫の行きつけの店は、日が暮れる前に看板を下ろすことになった――。