天泣〜天草四郎時貞〜(4)

黒い気の牙が雲飛に襲い掛かった。

体は壁に叩き付けられ、

その衝撃と同時に腕から血が噴き出る。

「見誤ったか・・・・・・っ・・・・・・。」

激痛を堪えつつ、雲飛は呟いた。

黒い気配が、彼の目の前で渦を巻く。

腕から溢れ出た血は、みるみる袖を湿らせ赤黒く染め上げる。

耳朶に、カタカタと耳障りな音が絶え間なく鳴り響く。

”我ハ夜ナリ、我ハ闇ノ風ナリ!”

魔神の哄笑だった。

”イカナルモノモ、我ヲ捕ラエルコトアタワズ。マタ逆ラウコトモアタワズ!”

壁に磔となった格好の雲飛の目前に、一つの不気味な仮面があった。

巨大な暗黒の瞳、歯が剥き出しになった唇を持たぬ裂けた口。

これは髑髏。

深い闇を湛えた眼窩には人のものでない、

丸い漆黒の無気味な目が嵌め込まれ、雲飛を見ていた。

(成る程・・・・・・これが・・・・・・兇神の本体・・・・・・。)

”コレハ珍奇。 貴様ガ生キタハ、塵芥ノゴトキ人ニアリエヌ年数。我ガ喰ラウニ相応シイ獲物ダ!”

魔神の暗黒の目が、忌まわしい悦びに輝く。

”我ガ『てすかとる』ニ見渡セヌモノハナシ。マタ見透カセヌモノモナシ!

故ニ万物ハ我ニ逆エヌ。世ノ全テハ、我、「てすかとりぽか」ノ奴隷ナリ!

見エタゾ、爺。貴様モカツテ我ノ嘉スル行イニ、手ヲ染メシ者デアッタカ!”

冷気が雲飛の身を浸蝕する。

いつの間にか髑髏は消え、雲飛は鏡と対峙させられていた。

どこまでも深く、底の見えぬ闇を湛えた、漆黒の鏡。

”己ガ愛スル者ヲソノ手デ引キ裂ク! 人ノ身ニトリ、ソレ以上ノ悦楽ハアルマイ!”

そこに映っているのは、魔性の気を放ち吼える、おぞましき魔物。

それは、魔物に完全に支配された我が身。

その目前に立つ、白い絽の着物を纏った姿。

「それは蛮勇です。郎君が手にすべきものではありません。

郎君にはおわかりのはずです。」

忘れられる筈もない声。

「郎君。どうか、目を覚ましてください。」

そう語りかけてきた彼女に、

この腕は刃を向けた。そして。

底知れぬ闇に黒光りする鏡の中で。

闇キ皇の憑代と成り果てた我が身は、妻の体を一刀両断した。


漆黒の鏡が鳴り響く。

それは魔神の嗤い声。

黒き鏡に、髑髏の仮面が浮かび上がる。

仮面が、嗤った。

目の前の老爺はもはや抜け殻。

かつての己の所業は、その心を刺し貫き、赤黒く流れ落ちゆく血に染める刃。

人の絶望こそ、その魂を彩り、輝かせ、なおかつ最高の美味を約束する薬味。

この枯れ果てた、だが千年の歳月をその身に蓄えた、得難き珍味であろう老爺は最初の獲物。

ようやく自由の身となり、仇敵たる”風の太陽”の時代を終わらせることができる。

その時魔神は気づいた。

”表ニ誰ゾアルナ。”

漆黒の鏡に映る髑髏の仮面は、見透かすように扉を見やった。

”子供カ。”


重々しい扉の外で。

幼子タムタムは、小さな拳を握り締めた。

この扉の向こうで、”王”は黒い神・・・・・・”黒き鏡の主”と伝えられ怖れられる、恐るべき魔性の神と相対しているのだ。

「天ノココロ、がぶる(創造神)タル"いつぁむなー"ヨ。」

子供は、天空の神の名を呼ぶ。

「火ノココロ、"きにち・あはう"、輝ケル太陽ヨ・・・・・・。」

太陽の神の名を呼ぶ。

重い石造りの扉の前で、しっかりと閉じた目に涙を滲ませながら、幼子タムタムは祈りを唇に昇らせていた。

毎日、父に教え込まれる神々の名、神々に呼びかける祈りの言葉を、”王”の無事を祈って唱え続ける。

今、彼にできることはそれだけだった。

ただ教わったとおりにそれを唱えるだけで、本当には神々と話すことのできない自分が悔しい。

祈りを唱える以外何の術も持たない、無力な自分が悔しい。

黒い神と独り戦う偉大な王にとり、何の力となることもできないのだ。

「地ノココロ、水ノココロ・・・・・・。風ノココロ、地ヲ渡ルけつぁるくぁとるヨ。

神々ヨ、ドウカ・・・・・・ドウカ、偉大ナル王ヲオ助ケクダサイ。」



”フム。アノ小僧、我ノ隠シタル気ヲ察シ、コノ爺ヲ案内シテキタカ。稀有ナル霊力。

我ノ憑代トナルニハ少々幼イガ、永ク使エルト考エレバ問題ハナカロウ。”

魔神は暗い愉悦に慶び勇み、高揚する。

目の前の、千年の刻を生きた老爺を喰らい尽くした後、この忌々しい神殿を抜け、

仇敵である光の神、”羽ある蛇”を崇める者どもを食いつくし、全て深き冥界ミナトルへと送り届けよう。

この老爺を皮切りに、数知れぬ恐怖と絶望、無念の叫びを喰らえるのだ。

永久に続く愉悦の時代・・・・・・”第五の太陽”を、この地の表に降ろす前奏曲として。

そして新たな憑代を得て、”第五の太陽”・・・・・・”オリン・トナティウ”の時代を開くのだ。



「異郷の兇神よ。」

その時。静かに、抑揚を持たぬ声で、長い鶴髪の老爺が呟いた。

「この程度で、儂を絶望させることはできぬよ。」

千年の間、数限りなく絶望し続けた。己が所業は魂に刻み込まれ、永久に消えない。

己が手で殺めた妻に償うためにも、

ここで死ぬわけには行かない。

一陣の仙風が雲飛の掌の中で舞い、髑髏を映した漆黒の鏡へと放たれる。

「オン!」

魔神が怒りを込めた唸りをあげ、壁に貼り付けられていた雲飛の体が離れた。

叩きつけられることなく、雲飛は石の床の上にふわりと降り立ち、

顔を闇から浮き出た腕で覆っている魔神に目を据える。

「ゴォォオォァァァァァァァ!!」

鏡の切片か、パラパラと中空から煌く欠片が零れ落ちてきた。

「オノレェ! コザカシイ爺ガ! 」

獣の如き咆哮をあげる魔神の周囲に、暗黒の気が立ち昇り、放出される。

「少なくとも、儂の目の前で魔性の者の好きにはさせぬ。」

呟き、雲飛は立ち上がり、無傷の腕に青竜刀を構える。

雲飛の流派・天仙遁甲はその名の通り、肉体としん(精神)を鍛え上げ仙道を得ることを目的としていた。

その先に目指すものは、剣仙。

剣を極め、なおかつ仙道を得た武侠のことである。

剣仙の使命とは、”正を迎うるなく、邪に触るる有り。”

すなわち、剣をもちて降魔辟邪をなすことであった。

この地は闇キ皇と全く無関係だったとは言えど、武侠として、また

己が手で殺めた師の後を継ぐ剣仙となるべきだった者として、なさねばならぬことがある。

この異国の兇神を止め、巫覡の力を持つあの子供を憑代とさせぬこと。

己の目の前で、同じ悲劇を繰り返すことだけは断じてさせぬ。


雲飛に、暗黒の刃が襲い掛かる。

怒り狂った魔神の吼え声が轟く。

またしても、避け続けるのがやっとの状態に追い込まれたが、

雲飛はその体に功を巡らせ、

飛び退き様に体から発した仙氣を足場とする。

その場に残った氣は、魔神の暗黒の風の刃を無化した。

刹那の隙に、雲飛は手にした青竜刀・天閃燕巧を己の正面に直立させ、掌を当て意識を集中させた。

襲い来る暗黒の刃。

「ふっ」

息吹を風と合わせる。

仙氣が、暗黒の刃を捕らえる。

雲飛は構えを解き、天閃燕巧を石の床に突き立てた。

次の刹那に、雲飛を取り巻いた微風は巨大な風巻しまきと膨れ上がり、渦を巻き高く舞い上がった。

風巻は石の天井を突き破り、轟音が辺り一面に響き渡る。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」

魔神が怒号を上げ、それは怖れの声へと変化していく。

かつて”羽ある蛇”ケツァルクァトルが、”黒き鏡の主”テスカトリポカを封じた神話の時代、

ケツァルクァトルがテスカトリポカに対し用いた武器も風であった。

仙氣の風巻を縫って流麗に舞う天閃燕巧は、魔神が出現した宝珠・・・・・・”破王の卵”へと向けられる。

雲飛が跳躍し、切っ先が破王の卵に触れ、それを媒体に仙氣の風巻は収縮し、宝珠へと吸い込まれていく。

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ・・・・・・・」

風巻に巻き込まれた魔神は、自意識が再び宝珠へ塗り込められようとしていることを悟った。

怒号が響き渡る。

「オノレェェェエエ”ええかとる”!」


突如、扉の向こうから湧き上がった轟音と衝撃に身を縮め、必死で怖れを振り払ったタムタムの元にも届いていた。

黒い神の、憎悪に満ち満ちた咆哮が。

幼いタムタムは、思わず両耳を強く押さえつけた。

だが魔神の声はなおも、頭の中に響き渡る。

「タカガ土塊ニスギヌ、人ノ分際デェェェ・・・・・・!」

咆哮は徐々に弱まり、深淵に引きずり込まれるようにか細く消えていった。


子供はよろめき、石造りの床に倒れこんだ。

魔神の凄まじい邪悪な気は、幼さ故に耐性のないタムタムの精神を、さながら暴風の如く踏みにじったのだった。

頭がズキズキと痛む。

歯を食いしばって激痛に耐えていた幼子は、魔神の気配が完全に消え去ったことを悟る。

黒い神は、もう禍をなすことはできないのだ。

「偉大ナ、王ガ・・・・・・再ビ・・・・・・黒イ神・・・・・・封ジテ、クダサッタ・・・・・・」

頬を涙に塗れさせた幼子タムタムは、途切れ途切れにそう呟いた。



王を迎えに行かなければ。

頭を苛み続ける、突き刺すような激しい痛みを堪え、子供は立ち上がった。

壁に手をつき、よろめく足を踏みしめて歩く。

あらん限りの力を込めて、石造りの扉を押し込んだ。

その向こうに、倒れ伏した長き白髪の姿が見えた。

幼子タムタムは悲鳴を上げ、”王”の側に駆け寄る。

”王”の片方の袖は、血にべったりと染まっていた。

魔神を再び”破王の卵”に封印した雲飛だったが、魔神に負わされた腕の傷は深かった。

武侠の心得の一つである内功をもって仙氣を巡らせ、傷の回復を図ったものの、

魔によって負わされた傷に対しては完全に作用しなかったのである。

「タスケテ・・・・・・誰カ、王ヲ・・・・・・。」

泣きじゃくっていた幼子の前に、突如差し込んできた緑の光。

暖かな光に、子供は顔を上げる。

翠に優しく輝く、大きな宝玉。

パレンケストーンと呼ばれる、村の守り石。

普段は村にある五つの神殿のうち”太陽の神殿”に収められているパレンケストーンが

何故、突如として”封印の神殿”に現れたのか。

宝珠は意思を持ち、ひとりでに移動したのか。幼いタムタムにはわからなかったが、

神が”王”を助けるために石を遣わせてくれたのだ、と即座に納得した。

人が神に対し、願いの実現を要求するならば代償がなくてはならない、と

タムタムは父に言い聞かされてきた。

代償を。

「王ヨ、オ借リイタシマス。」

幼子タムタムは、”王”の手にあった刃渡りのある刀を手に取る。

捧げて一礼してから、刃を己の腕に当てた。

一気に引く。

裂かれた皮膚からみるみる紅い雫が滲み出し、珠の形に盛り上がり、滴り落ちていく。

「天ノココロ、火ノココロ、地ノココロ、水ノココロ……」

穏やかに光を放つ、翠の宝玉へと血を流す腕を伸ばし。

幼子タムタムは、必死に祈りを捧げた。

ぽたぽたと、血の珠が石の床に滴り落ちる。

マヤに伝わる、自傷と放血をもって神への供物となす儀式である。

「風ノココロ、”光ノ風”タルけつぁるくぁとるヨ! ドウカ、偉大ナル王ヲオ助ケクダサイ!」


四方の石の壁が、翠の温かな光に染まっていく。

光は、祈る幼子とその前に横たわる老爺を包む。

ややあって。

「む・・・・・・。」

雲飛が微かに呻いた。

「王ヨ、王ヨ大丈夫デスカ!」

タムタムは”王”へと屈み込み、肩に手を当てる。涙の雫が、ぽつぽつと零れ落ちた。

雲飛の目が開く。

「王ヨ!」

先ほどまで悲痛な響きを持っていた子供の叫び声に、喜びの色が溢れた。

目を開き、視線を動かした雲飛の眼にまず映ったものは、翠の光に照らし出された血塗れの薄茶の手だった。

身を起こし、光の源に目をやると、緑に輝く宝玉が宙に浮かんでいる。

(”光の黄珠魂”か・・・・・・。既に、聖石として充分な力を蓄えておる。)

雲飛は子供に向き直る。

「痴れ者が。」

静かな、だが威圧に満ちた声を身に浴び、子供の体がびくんと震えた。

「傷を受けることを恐れぬのはよい。だが無駄に体を傷つけるな。」

雲飛は険しい眼光で子供を見据える。

「武人はそのような行為をするものではない。」


血に塗れた小さな拳。

幼きタムタムはその手を引くと、膝の上でぎゅっと握り締める。

傷の痛みよりも、この手で”王”に触れて怒らせてしまった、そのことに対する悔恨で幼子の心はいっぱいになっていたのだ。

偉大な王、すなわち神ケツァルクァトルは、

地上に降り立った時、世界で最初に自らの体を傷つけ、血を流す苦行を行ったとされる。

その苦行はマヤの世界で、王族や神官たちにより脈々と受け継がれていった。

それは、先の魔神の時代であった”ジャガーの太陽”が壊滅した時、世界に満ち溢れた屍の山の上で行われ、

大量の骨と神の血から、ケツァルクァトルが司る新たな時代たる”風の太陽”を生きる、

新たな人類が誕生したと言われている。

だがそれでも、王は命を奪うほどの流血を忌み嫌われ、生贄を厭われた。

だから、”王”を自分の血で穢してはいけなかったのに。


「・・・・・・ゴメンナサイ・・・・・・」

うつむいたまま消え入りそうな声で呟き、そのまま”王”から身を引こうとしていた幼子の体は、

”王”の胸元へと、引き寄せられた。


「惜しいな」

腕の中で、幼子は目をいっぱいに見開きながら、”偉大な王”の呟きを聞く。

「千年前にお前と長安で出逢っておれば、九人目の弟子として鍛えられたものを。」


異郷の子供を腕に抱きながら、雲飛は記憶の奥底で、八人の弟子たちの声を聞いていた。



”雲飛師父!”

”雲飛師父!”

二度とまみえる筈もない、彼らの笑顔が見える。

彼らの弟弟子として、この異郷の子供を長安に連れて行く。

そんな想像が刹那、脳裏を過ぎっていった。

わかっている。ありえるはずもないことは。

弟子たちは皆、もうこの寰宇にない。

唐の社稷もまた、千年の刻の流れに呑まれ、夢と消え去った。

そしてこの子供は、かつて雲飛の生きた時代とは全く別の時代であるこの刻に、別の世界であるこの國に生きている。



「――去國魂已遠、懐人涙空流。」

突如”王”の唇から零れた馴染みなき言葉。

腕の中の幼子は、戸惑いつつを覚えつつも身じろぎ一つしなかった。

「孤生易為感、失路少所宜。・・・・・・儂も老いたな。」


このような感傷など。

かつての自分ならば、用なきものとして切り捨てていた。

老いるということは人の必然とはいえ、情けないものだ。



雲飛は、抱き寄せていた子供を解放した。

「王ヨ。」

血のこびりついた小さな拳が、雲飛の袖口をしっかりと掴んでいた。

「王ヨ、行カナイデ! オ願イ、ドウカ行カナイデクダサイ!」

我を忘れた子供の円らな目には、必死の色が溢れ出さんばかりに満ちている。

僅かに疑問を含んだ眼で、雲飛は子供の様子を見つめる。

「儂も老いたな」という”王”の呟き。

それは幼子タムタムにとり、日々接している伝承唄にすぐさま結びついた。

偉大なる王トピルツィンが、黒い神に謀られ国を後にする決意を固めたとき。

王は側近に鏡を所望した。

過ちを犯した直後、黒い神に見せ付けられた”黒い鏡”。

映った自らを醜いと嘆いて以来、初めてのことだった。

王は鏡に顔を映し、儂も老いたなと言ったという。

それからトゥーラを後にした王は、彼を追ってきた者たちにこう告げた。


真摯さの溢れる眼差しで、食い入るように見つめてくる幼子を見返しつつ。

唐の武侠であった老爺の、厳しく、険しい顔(かんばせ)に、ほんの僅かに微笑が浮かぶ。

そして、言葉が告げられた。


「儂は、どうしても行かねばならぬ。」


伝説の中で。

”偉大なる王”トピルツィンが、彼を慕う民たちに告げたという、正に同じ言葉を。

幼子タムタムは目の前の、鶴髪の老爺の口から聞いていた。

「まだ為すべきことが残っておる。故に留まるわけにはいかぬ。」


子供の目からみるみる涙が溢れ出し、浅黒くつやつやとした頬を流れ落ちる。

「モドッテ・・・・・・」

しゃくりあげる子供の口から、漏れ落ちる言葉。

「マタ、イツ、戻ッテコラレルノデスカ、王ヨ。」

「もう、ここに戻ることはない。」

しゃくりあげている子供の声は、その言葉に叫びへと変わった。

老爺の服にしがみつき、後先なく号泣する幼子。

「泣くな。お前にもこれから、ここで為すべきことがあろう。」

静かな声に込められた力強さ。

雲飛は、しゃくりあげる子供の小さな肩に手を置く。

「戦士となるのなら、妄りに感情に振り回されるな。」

その言葉に、子供はぴたりと叫びを止め涙に濡れきった顔を上げた。

「よいか。お前はこれからこの地で学び、己を磨きこの地を守る者となれ。」

この村を守ることは、対の”黄珠魂”である二つの宝珠を、狙う魔の眷属より守ること。

すなわち、世界を守ることだ。

「子供よ。儂に誓えるか。」

そう鋭い眼光で見据えられつつ、真っ直ぐに雲飛の目を見返している幼子の目には、決して負けてはいない強い光が宿っていた。

「この二つの黄珠魂、断じて世に出さぬことを。」

子供は視線を逸らさず、大きくうなずく。

「王ヨ。たむたむ、ココデ王トけつぁるくぁとるニ誓イマス。必ズ真ノ勇者ニナッテ、

コノ村ト二ツノ石、守リ抜イテミセル。」

ただ純粋に、まっすぐに雲飛を見つめ、その向こうの、果たすべき使命を見つめている瞳。

「知るが良い。強さに溺れぬことこそ、真の強さということを。」

子供はしばし雲飛を見つめていたが、

「ハイ。」

そう、力強く答えた。

雲飛は、子供の肩に手を置く。

「己が道を、一点の曇りもなく歩め。世で最も険しい道を行け。」

子供は、また言葉にうなずいた。

「儂と同じ過ちに踏み込むな。」

「・・・・・・ハイ。偉大ナル王、けつぁるくぁとる・とぴるつぃんヨ。」

答えて突然、子供は崩れた。

極度の緊張が続き、自ら失血し、それらの多大な負担による限界が襲ってきたのだろう。



月に照らされた闇夜でも、”封印の神殿”の一部が崩れ落ちたことは見て取れる。

轟音に目覚めたヤシュル・スユア(グリーンヘル)の村人たちは、長であるサムサムを先頭に神殿の広場に集まっていた。

何が起こったのか。

やがて。

風が起こり、神殿の崩れた部分から宙を翔けて来た者がいる。

村人達の間に起こる驚嘆の声。

白髪の老爺が、彼らの前に降り立った。

その腕に子供がいる。

村長の長子がぐったりと寝入っている。

老爺が、村長の前に降り立った時。

村人たちは一斉に跪き、首を老爺の前に垂れた。

風を操りし者。

神の化身である方だと、全員が認めたのである。

厳めしい表情の老爺は、先頭で平伏する長サムサムに腕の子を渡した。

子供を受け取った長は老爺に語りかける。

「風を操りし方、エエカトルよ。もしやあなた様の名は、王者なる天の蛇、”アハウ・カン”では・・・・・・」

村長が言葉を続けるより先に、老爺は踵を返した。

風が、ふわりと老爺の周りを吹き、

老爺の足は大地から離れていた。

「おお」

長が声を発した次の刹那に、老爺は大気を切り裂き飛び去っていた。

遠く、天空をなおも遠く。

長の後に従う村人たちの幾人かが、驚嘆の声を上げまたも平伏する。

エエカトル、エエカトルと囁く声が、細波のように彼らの間を渡っていった。

老爺が飛び去った空を眺めていた村長は、腕の中に眠る稚(いとけな)い長子に目を落とす。

子供は僅かに目を開け、父を目に捕らえた。

「父サン。たむたむ、モウ、黒イ神ノ夢ハ見マセン。」

そして、目を閉じる。


幼いタムタムは、既にこの時意識が半ば朦朧としており、

夢の中にいた。

かつて、この大地にあった輝かしき戦士たちの国、トゥーラ。

トゥーラを治めた偉大なる心優しき王、トピルツィンは

”鷲の戦士団”、そして”ジャガーの戦士団”と呼ばれる最強の軍隊を従えていたという。

マヤにおいて、それぞれ空と大地における最強の生物の名を冠した戦士たち。

幼子タムタムは、夢に思っていた。

大きくなったら、”トラパリャン”へ行きたい。

そこはトゥーラを後にした偉大なる王が旅立たれたと伝えられる、”真紅の国”を意味する叡智の場所。

そこで偉大なる王に再会し、王にお仕えする最強の戦士団に入って、

自分は光の戦士となる。

タムタムの夢の中で、”王”は微笑んでいた。


空の際が、白み始めている。

だが、眼下の地平線まで広がる森は、まだ黒々と闇に沈んでいる。

底なし沼のように深い、緑の深淵。

その中に、ぽつりと島のように見える村の五つの神殿。

雲飛は、風を従え中空に浮かび、その光景を見下ろしていた。

ふと、脳裏に浮かんだものがある。

「悲シンデオラレルノデスカ」

そう言って、涙を零した子供の姿だった。

千年の孤生を経て、

はじめて彼のために流された涙。

あの涙だけは、

”偉大なる王”のために流されたものではなかった。


雲飛は、僅かに首を振る。

あの子供のことは、忘却の彼方に追いやろう。

この先、二度と巡り逢うこともあるまい。

己は己の為すべきことのために逝き、

あの子供は、為すべきことのために生きるだろう。



達者で暮らせよ。

声には出さず、雲飛は心に呟く。



「風を操りし者」である大陸の老爺は、明け始めた空を飛び去っていった。

この十年後、彼は目指す魔が憑依した倭の国で、

戦士と成長した南蕃の子と再び合間見えることとなる。


天泣(3)  天泣(5)  脚注

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